戦略的逆境からわずか1カ月半でフランスを撃破…ヒトラーも舌を巻いた「ドイツの大逆転劇」はかくして起きた ドイツの智将マンシュタインの破天荒な「鎌の一撃」計画
ポーランドとの戦争の大勢が決したころ、ヒトラーは早くも参戦した英仏両国に対する攻勢を、しかも早期に実施すると決断していた。9月27日、陸海空三軍のそれぞれの総司令官に対し、秋季のうちに、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの中立を侵犯する攻勢を行うとの通達がなされた。ついで、10月9日付で、西方攻勢の準備を命じる総統指令第6号が発せられる。
驚くべきことに、ヒトラーは当初、11月12日には西方侵攻を開始するつもりであったが、陸軍総司令官ブラウヒッチュ上級大将は、それでは、天候によってドイツ側が優勢である航空戦力の支援が受けられなくなるし、あらたな部隊の編成作業も完了できないとして、反対した。これにはヒトラーも折れないわけにはいかず、可及的速やかに発動するとの留保をつけながらも、西方作戦発動を延期したのであった。
「マジノ線」を迂回して攻撃する計画が立てられたが…
以後、1939年の晩秋から翌40年の初夏に至るまで、西部戦線のドイツ軍と英仏連合軍は、大規模な軍事行動を控えたまま、いわば、にらみ合いを続ける。英語で「まやかし戦争フォウニィ・ウォー」、フランス語で「奇妙な戦争ドロール・ド・ゲール」、またドイツ語では「座り込み戦争ジッツクリーク」と形容される、異様な事態が訪れたのである。
この間に、OKH(陸軍総司令部)は西方侵攻「黄号ファル・ゲルプ」作戦の立案を進めたが、その構想は旧態依然たるものがあったといわざるを得ない。ハルダー陸軍参謀総長以下、OKHの参謀たちは、フランスがドイツとの国境に築いた要塞帯、いわゆる「マジノ線」(この要塞線構築の予算案を通過させるために努力したフランスの陸軍大臣アンドレ・マジノにちなんで、このように称された)を、正面から突破することは困難であるとみた。
そこで、西部戦線にあるドイツ軍の右翼を強化し、これを以てマジノ線がおよんでいないベルギーを突破、英仏海岸に進んで、連合軍を包囲撃滅するという計画を立てたのだ。