「鉄の女」と呼ばれた元官僚 激務でカンジダ症繰り返し「デリケートゾーン」の重要性を実感 震災後の福島で会社を興して

■「女だから」と思われないように ── 福島で起業し、現在はデリケートゾーンのケアに特化した商品の開発・販売を行っている小林さんですが、最初の経歴は国家公務員としてスタートしたそうですね。 小林さん:国家公務員一種で採用され、最初は衆議院事務局で働いていました。私が社会人になった2010年は女性活躍がうたわれていて、今と違って長時間労働は当たり前。なんなら長く働ける方が評価をされていたと思います。土日も関係なく、職場の床に段ボールを敷いて仮眠をとる日もあり、月の残業時間が300時間を超えたこともありました。

自分自身の限界がわからなったので、やれるだけ頑張って、心身の不調はだましだましやってきたという感じです。当時はカンジダ症を繰り返していて、生理が止まったり頻繁に来たり、今思うとあの状態でよくやっていたなと思います。 ── そこまでして頑張って働いていたのはなぜでしょうか。 小林さん:衆議院事務局では、「ここに女性で私立大出身の人が入るのは初めて」と最初に言われました。「わざわざ女性とか私立大という言葉を取り出される必要ってあるのかな」と思いましたが、実際、周りは東大や一橋大などの国立大出身者で、圧倒的に男性が多かったです。「私は出だしから負けているのか」という感覚になりました。男性に勝たなくては生き残っていけないと思って、女だからとか、女のくせにと思われないようがむしゃらに働きました。性格はきつかったと思います。締め切りを守らないような人がいたら攻め立てるほどとがっていて、「鉄の女」と呼ばれていました。

── 社会人になってジェンダーを意識させられたそうですね。 小林さん:学生時代には、女性だから男性だからということを考えたことはありませんでした。社会人になって、職場には家事があって、その役割を担っているのが女性だと知ったときはショックでした。女性が当たり前のように管理職の男性のお茶を淹れていて、いただいたお菓子を切りわけることも女性がすることでした。飲み会の席で男性に食事を取りわけたり、お酒を注いだりするのも女性の役割。女性の先輩からも「こういうのは女性が率先してしないと」と言われました。要は気が使えない、つまりは仕事ができない人だと思われてしまうということなんです。新人全員に言われるならまだわかるのですが、女性だけに求められていて。でも誰も異を唱える人はおらず、「きっと自分もそうしないと、プロジェクトに入れてもらえないとか、出世にも影響するんだろうな」と思ってやっていました。


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── 起業して何をするかは最初から決めていたのですか。 小林さん:「福島で人のためになることをする」ということだけを決めて、2017年に「株式会社 陽と人(ひとびと)」を立ち上げたのですが、事業計画はしっかり定まっていませんでした。仕事を辞めて、まずは国見町の農家さんのお手伝いに行くことからスタートしました。福島県の最北端に位置する国見町に、とにかくほれ込んでいて。仕事で訪れる機会があったのですが、自然が広がるこの場所にいるだけで肩の力が抜けて、自分らしくいられるような気がしたんです。それに、資源がたくさんあるからこそかもしれないのですが、外へのアピールが下手で。町の活性化のための力になりたいと思っていました。

最初は追い返されたこともあったのですが、顔を合わせる回数が増えるごとに農家さんと仲良くなって。話を聞いていると、国見町の特産品のあんぽ柿の価格が震災以降、下がっていることを知りました。あんぽ柿は、水分量が多い干し柿で、生産者の方が誇りを持って作っているんです。でもこの価格のままでは農業の継続や次世代に繋ぐことが難しくなってきます。もっと広く知ってもらうとともに、やりがいだけではなく、農家さんの収入にもきちんと繋げていかねばならないと思いました。

あんぽ柿は、渋柿を使って作ります。生産過程で廃棄されていた柿の皮を調べてみると、ポリフェノールが多く、消臭効果や毛穴の引き締め効果、保湿効果などが期待できることがわかりました。地元ではもともと柿は食べるだけではなく、柿渋石鹸で体を洗ったり、柿渋液で歯を磨いたりなどして利用されてきたようです。その天然の成分にこだわり、3年かけてデリケートゾーンのケアに特化した商品を開発しました。

■デリケートゾーンは女性のバロメーター ── なぜフェムテックに注目したのですか。 小林さん:2017年に開発を始めた当時は、フェムテックという言葉も知られておらず、デリケートゾーンという言葉を使ったらびっくりされてしまうような状況でした。でも、女性が自分で自分の体を守れるようにとの思いを込めて、着目したのがデリケートゾーンのケアでした。今はだいぶ浸透してきたなと実感しています。 国家公務員時代にカンジタ症を繰り返していたのですが、その原因は免疫の低下やストレスで、デリケートゾーンの菌のバランスが崩れて、かゆみやかぶれなどの不調となって現れていたと後から知りました。デリケートゾーンが女性の心と体のバロメーターになっていることに気づいてから、同世代で同じ悩みを抱える女性のため、福島の農家さんのためにと思って商品作りを始めました。ところが、ふたを開けてみると更年期を迎えた女性のニーズが多いこともわかって。女性ホルモンが減ってデリケートゾーンが乾燥しがちになるので、今まで履いていた下着に違和感が出るようになったとか、自転車に乗ると擦れて痛いというトラブルがある方からもお買い求めいただいています。


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── 女性の先輩方も同じ道を通ってきていたんでしょうね。 小林さん:職場で日本の女性活躍のロールモデルになりなさいと言われていたのですが、この過酷な働き方のうえで女性活躍が成り立っているのはあまりにも酷だと感じていました。生理不順を周りの先輩や同僚に相談したことがあったのですが、口々に返ってくる言葉は「私もだよ」と。周りはそういう環境でした。 ── 体調が心配ですが、通院する時間はありましたか。

小林さん:評判のいい婦人科はすごく混んでいるので、お昼休みにご飯を食べに行くふりをしてあまり人気がない病院に通っていました。薬は出してもらえたので、カンジタ症の薬とホルモンバランスを整えるためにピルを処方してもらっていました。当時はなぜカンジダ症を繰り返すのかもわかっていなくて。子どもをほしいとは思っていなかったのですが、仮に将来子どもを望んだときに本当に産めるのかという漠然とした不安はあったものの、しっかり調べたことはありませんでした。

── 国家公務員として働き続けることを考え直したきっかけはなんでしたか。 小林さん:就職後1年経って、東日本大震災が起きました。仕事で直接、復興に携わる業務はなかったので、有給を使ったり休みを利用したりして、個人的に被災地のボランティアに行きました。でも、がれき処理のボランティア中に倒れてしまったことがあったんです。暑さや体力が落ちていたのも影響していたと思いますが、目の前に広がる津波被害の状況にショックを受けてしまって。力になりたいという気持ちだけが先走って動いては、逆に迷惑をかけてしまうと反省しました。ほかにできることといえば、当時、風評被害が深刻だった福島県産品を見かけるたびに買うということだけでした。人のため、社会のためになろうと思って国家公務員になったのに、有事の際に何もできなかったという後悔がずっと残りました。

── その後、転職されたそうですね。 小林さん:経済産業省に出向になって働いていたのですが、直接、復興に関わる仕事をしたいと思い、コンサルティング会社に転職しました。福島でのプロジェクトを希望して関わっていたのですが、今度は自分の仕事の無責任さを感じ始めました。自治体から依頼されて地域で活かせる資源の調査を行っていくのですが、どのプロジェクトも期間が決まっていて、それが終わったら現場を去らねばなりません。福島に出入りはしていたものの、いつまで経っても部外者感があり、「本当にこれが福島の復興の役に立っているのかな」という疑問が湧き始めました。それなら自分で飛び込んで、ひとりでも心から喜んでくれることをしたいと、思いきって福島で起業することにしたんです。


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── 起業後の体調はいかがですか。 小林さん:今はとっても健康です。実はあれだけ心身に不調があったのに当時は自分の体調がそこまで悪いとは思っていなかったんです。起業して、体調がいい状態を保てたときに初めて「今まで体調がよくなかったんだ」と気づけました。日々に追われていると、自分の状態を客観的に振り返る時間はあまりありません。毎晩お風呂に入るときに数秒でもいいので、「無理をしていないかな」「不調はないかな」と自問することで心身の変化に気づくきっかけになってほしいですね。女性が自分や大切な人を守りながら、生き生きと過ごせる社会になってほしいと思っています。

… 起業後、住民票を移して福島に移住した小林さん。事業が広がるにつれ「福島の外に市場を作らなくては」と思い始め、現在は東京と福島の2拠点生活を送っています。子育てへのプレッシャーから結婚後も子どもを望んでいなかったそうですが、その思いを変えたのは福島で5人のお子さんがいる農家さんとの出会いだったそうです。現在3人のお子さんと暮らす小林さんは、「子どもたちの未来は、周りの環境で何かを諦めてほしくない」と語り、働くこと以外にも人生の幸せを見出してほしいと話していました。

内橋明日香

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