「君たちは間違った物理を使っている」 量子コンピューターを生んだひらめき
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1982年12月、テキサス大学の物理学者ジョン・ホイーラーは小さな研究会を開いた。スティーブン・ホーキングら重鎮から若手まで約20人の研究者を招き、量子力学の基本問題を議論するものだ。その中に、前年の国際会議で計算の物理学について講演したIBMのチャールズ・H・ベネットと、大学院生のときにホイーラーのもとで研究していた英オックスフォード大学のデイヴィッド・ドイチュもいた(文中敬称略)。
ホイーラーがドイチュを招いたのは、彼がホイーラーとは異なる量子力学の少数派解釈を支持していたためと思われる。量子力学の式は実験結果を正確に予測し、異論のある物理学者はほぼいないが、この式がどんな世界像を示しているかについては議論百出だ。
標準的な解釈では、量子力学の式で示される「重ね合わせ」の状態は実在するものではなく、これを観測することで位置やエネルギーが確定し、古典物理学(量子力学以前からある物理学)で説明できる実体になると考える。ホイーラーは観測者の役割を特に重視し「It from Bit」という考えを打ち出した。「あらゆる物理量的な量『イット』は、観測者が得る1か0かの情報『ビット』によって存在するようになる」という意味だ。
一方1957年にヒュー・エヴェレットが提唱した解釈では、量子的な重ね合わせ状態はすべて実在しており、これを観測したら、観測者も含めた全体が量子的な重ね合わせになると考える。量子から古典への飛躍は起こらず、我々の宇宙も、重ね合わせになった多数の宇宙のうちの1つだ。観測を含めたあらゆる物理過程は量子力学で説明される。
この解釈を提唱したとき、エヴェレットはホイーラーの学生だった。ホイーラーは自分とは真逆のエヴェレット解釈の優れた点を積極的に評価し、研究を続けるように勧めた。だがエヴェレットはアカデミアを去り、研究会の少し前に亡くなっていた。ホイーラーは研究会にエヴェレット解釈についてのセッションを設け、ドイチュらが発表して議論した。
その翌日、量子と情報についてのセッションで、ベネットがモントリオール大学のジル・ブラッサールとともに作った量子暗号について話した。現在の暗号は、暗号を解く鍵を見つけようとしても「必要な計算量が多すぎて実行できない」という数学的な壁によって暗号鍵を秘匿する。一方、量子暗号は「量子状態の複製は不可能」といった物理法則によって暗号鍵を守る。
研究会後の夕食会では、自然と計算量が話題になった。ちょうど米科学誌のSCIENTIFIC AMERICANの最新号に、与えられた数が素数かどうかを判定する新しい方法についての記事が載っていた。研究が進めば計算量も変わると誰かが言い、ドイチュは思わずつぶやいた。「そもそも計算量を見積もることに、何か意味があるのだろうか」。
隣にいたベネットは、ドイチュになぜそう思うのかを尋ねた。ドイチュは、問題を解くのに必要な計算量は計算の基本操作によって変わるから、と答えた。人為的に設定する基本操作に基づいて計算量を調べても、自然への本質的な理解が得られるとは思えないと。するとベネットは言った。「でも、計算の基本操作は物理ですよ」。
ドイチュは「衝撃でのけぞった」という。彼はベネットが言った意味を瞬時に理解した。そして思わず「ならば君たちは間違った物理を使っている!」と返した。
後にドイチュはこう語った。「私はそれまで、計算というのは物理とは関係ない数学の一部だと思っていた。だがそうではない。物理的な実体のない情報は存在しない。計算は物理的な過程で、どんな計算ができるかは物理法則によって決まる。ベネットらがずっと前から主張していたことに、自分はこのとき初めて気づいた」。
だが、ベネットらが計算の物理過程の解析に用いたのは古典物理学だ。エヴェレット解釈を取るドイチュにとって、計算が物理過程ならば、それは量子力学過程以外にはありえない。ドイチュは直ちに、計算のモデルであるチューリングマシンを量子力学に基づいて書き直す仕事に着手した。
ドイチュは当初、量子チューリングマシンは従来のチューリングマシンと同じものに帰着するだろうと予想していた。だがある晩、従来のマシンでは実行できない新しい計算過程を実行できることに気づいた。
量子チューリングマシンは膨大な数のデータを量子的な重ね合わせ状態にし、それらを同時に操作する。量子ビットが50個もあれば、1000兆個以上のデータを同時並行で処理できる。エヴェレット流に言えば1000兆個の宇宙で計算を分担するのだ。結果をそのまま読み出すと重ね合わせになった1000兆個の結果のどれか1つがランダムに出力されてしまうが、重ね合わせになった結果どうしを干渉させることで、問題を解くのに必要な情報を得ることができる。
ドイチュは、量子力学的なプロセスはすべて量子コンピューターの基本操作の組み合わせで表せることを証明した。「量子計算は、量子力学を記述する新しい言語だ」とドイチュは言う。そしてこのマシンを「ユニバーサル量子コンピューター」と名付け、1985年に発表した。量子コンピューターの研究はここから始まり、現在に至っている。
(編集部・古田彩)
詳細は9月25日発売の日経サイエンス2025年11月号に掲載
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