同じ机を並べていた2人から始まった…J最強のライバル物語 「自分にはできない」驚いた監督の"招聘"
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鹿島アントラーズは、5月11日に国立競技場で行われるJ1リーグ第16節で、川崎フロンターレと対戦する。“オリジナル10”の鹿島と、そこに追いつけ追い越せとばかりに猛追してきた川崎の間には、さまざまな接点がある。ガチンコ勝負を重ねる一方で、実は指導者や選手の“人的交流”も多く、良好な関係を築いてきた。キーパーソンとなるのが、両クラブの強化責任者だ。(取材・文=小室功/全2回の2回目)
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Jリーグの覇権を争う鹿島アントラーズと川崎フロンターレの対戦史のみならず、両クラブの交流史を紐解くと、興味深いエピソードに事欠かない。
日本のサッカー界ではよく知られているが、それぞれの強化責任者だった鹿島の鈴木満・現フットボールアドバイザー(FA)と、川崎の庄子春男・現ベガルタ仙台ジェネラルマネージャー(GM)は高校時代からの旧友なのだ。ともに宮城県工高(宮城)のサッカー部に所属。しかも3年間、同じクラスだった。
県内有数の強豪校である宮城県工高で、全国大会を目指し、日々、トレーニングに明け暮れた。最終学年では庄子氏がキャプテン、鈴木氏が副キャプテンを務めた。
「庄子の出身中学は県内で優勝するようなチームでしたから、高校に入る前から名前を知っていました。選手としての力はもちろん、すごく面倒見が良くて、寛容さがある庄子は人としても素晴らしく、誰からも認められる存在。ギスギスするような雰囲気を作らず、組織(チーム)をうまくまとめていくタイプでした。でも、私はとにかく負けず嫌いで、試合になると、熱くなってしまう(苦笑)。すごく対照的だったと思います」(鈴木氏)
高校卒業後、庄子氏は東北学院大、鈴木氏は中央大に進み、4年間を過ごしたのち、前者は富士通(川崎の前身)、後者は住友金属(鹿島の前身)にそれぞれ入社。ともに実業団チームで現役生活を続けていたこともあり、当時の日本サッカーリーグ2部で相まみえた。
80年代後半に入ると、日本サッカー界初のプロリーグ創設の気運が高まり、1993年5月15日、ついにJリーグ開幕の日を迎えた。鹿島は“オリジナル10”として初年度からJリーグの舞台で戦い、川崎は日本フットボールリーグ、J2を経て、2000年にJ1初昇格。1シーズンでJ2に降格したものの、2005年にJ1に復帰すると、強豪クラブへの歩みを加速させていく。
「私は1996年から強化の担当になったのですが、月1回くらいのペースで行われていたJリーグクラブの強化担当者会議に出席していました。日本のサッカー界がアマチュアからプロに変わったばかりで、まだまだ手探り状態でしたから、ほかのクラブの担当者といろいろな話をしました。会議のあと、ときには近くのお店にいって、酒を酌み交わしながら、ということもありましたね」(鈴木氏)
テーマは多岐にわたり、話題は尽きなかった。クラブの垣根を越えて、微に入り細に入り、強化の仕事について語り合い、さまざまな情報を共有した。
「川崎はあとからJリーグに加わりましたが、庄子とは高校時代からの付き合いですし、ほかのクラブの強化担当者よりもざっくばらんに話ができました。お蕎麦屋さんに寄って、板わさや卵焼きなどを突っつきながら、結構、深い話をしたのを覚えています」(鈴木氏)
Jクラブとしてすでに数々のタイトルを獲得し、一歩も二歩も先をいく鹿島のマネジメントのノウハウを学ぶ良い機会と、庄子氏は捉えていたのだろう。「これまでの自分の経験を話していると、向こうはなるほどなといった真剣な表情で聞いていましたね」と、鈴木氏は回想する。
川崎が強豪クラブの仲間入りをしていく背景に、鹿島あり――。このような解釈は決して的外れではないだろう。チーム作りの方法論や戦略などを参考しつつ、戦力面でも少なからず利を得ていたからだ。
「J1で戦っていくために、J1の経験者、それこそJ1での優勝経験者が必要になる」
こうした強化方針を立てた川崎は、J1初昇格を果たしたばかりの2000年に鹿島のマジーニョや奥野僚右、鬼木達、鈴木隆行を一挙に獲得。その後も2003年にアウグスト、2004年に相馬直樹といった面々を迎え入れている。
「(1998年に)黄金世代と言われる小笠原(満男)や本山(雅志)、中田(浩二)、曽ケ端(準)が入ってきて、将来的に彼らを中心にしたチームを作っていこうと考えていました。いかに世代交代していくか。そこが鹿島の課題でもあったわけですが、2000年に入った頃が、ちょうどそういう時期でした」(鈴木氏)
チーム強化のためにJ1経験者を求める川崎、世代交代によって出場機会が減りそうな中堅やベテランの移籍先を模索する鹿島。双方の意向が一致したことで、移籍交渉は円滑に進んだ。
また、川崎の歴代指導陣のなかに、鹿島を古巣とする関塚隆(監督)や古川昌明、イッカ(ともにGKコーチ)といった名も見つけることができる。現役引退後、指導者の道に進んだ相馬は両クラブで指揮を執っているし、現在、鹿島を率いる鬼木監督もしかりだ。両クラブの良好な関係性がうかがえるだろう。
2005シーズン以降、J1に定着した川崎はここまでに通算7冠を積み上げた。タイトル数ではまだまだ及ばないものの、すでに鹿島と対等な関係にある。2012年のジュニーニョや2023年の知念慶のように、“一方通行”だった移籍も近年、変化が見られる。それはつまり、タイトル奪還を目指す鹿島にとって必要とする選手が川崎にいるという証左にほかならないだろう。
かつて、鈴木氏がこんな話をしていたのを思い出す。
「庄子は高校時代の同期ですからね、川崎がJ2にいたころは“早くJ1に上がれるといいよな”などと応援していました。でも今は、(上から目線のような)そんなことは言えません(苦笑)。J1での対戦では負け越していますし、巻き返したいと思います」。
スキルフルで、連動性にあふれ、狭い局面を巧みにすり抜けていく川崎の“魅せるサッカー”はJリーグに新たな風を吹き込んだ。独自のスタイルを追求・構築するうえで、大いに手腕を発揮したのが、2012シーズンから指揮を執った日本サッカー界の異才・風間八宏監督(当時)である。そして、その風間監督の招へいに奔走したのが、強化責任者の庄子氏だった。
「風間監督にオファーを出すのではないかという話を耳にしたとき、正直、半信半疑でした。というのも、風間監督は大学チームでキャリアを積んでいましたが、プロでの指導経験がなかったからです。そのような指揮官に、いきなりプロチームの監督を任せるという判断は自分にはできないなと。でも、庄子の視点は違っていましたね。それまでの実績や名声にかかわらず、先入観も持たず、フラットな目で“風間監督にチームを任せたい”と考えたようです。大学とプロの違いはあってもチーム作りのアプローチに惹かれるものがあったのでしょう。その後の川崎の見違えるような戦いは多くの人たちがご存知だと思いますが、同じ強化の立場として“いい仕事をしたな”と庄子に直接、伝えたことがありますね」(鈴木氏)
ともに過ごした宮城県工高を卒業し、今年でちょうど50年。サッカー部では、ディフェンスリーダーとして後ろでどっしり構える庄子氏がいて、エースナンバーの10番を身にまとい、チームの得点源として活躍する鈴木氏がいた。プレー面でも対照的な両者だったようだ。
同じクラスで、机を並べていた2人がのちにJリーグを代表する強豪クラブの強化責任者として覇権を争うなど、Jリーグのなかった時代だけに想像もできなかっただろう。両者を巡るこうした事実に、ただただ感嘆するばかりである。
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