マッコウクジラの声に「母音」を発見、ヒントはゾウ、どういうこと? 特定された音とは

 ザトウクジラの美しい歌声と比べると、マッコウクジラが発する音は音楽とは程遠い。金属のくしの歯を爪で引っかくような、あるいは水中削岩機のような、力強いスタッカートのクリック音を放つ。しかし、科学者たちはいま、マッコウクジラが動物界で最も洗練されたコミュニケーションシステムのひとつを持っていることに気づき始めている。 【動画】マッコウクジラの声の「母音」、クジラの会話も  2025年11月2日付で学術誌「Open Mind」に発表された最新の研究成果は、マッコウクジラ(Physeter macrocephalus)の声にヒトの母音に相当する働きがあることを明らかにした。これにより、マッコウクジラのコミュニケーションは、これまで考えられていたより複雑で繊細なものだとわかった。  研究を率いたのは、米カリフォルニア大学バークレー校の言語学者で、マッコウクジラのコミュニケーションを解読する学際的な「プロジェクトCETI(Cetacean Translation Initiative:クジラ目翻訳イニシアチブ)」のメンバーでもあるガシュペル・ベグシュ氏だ。そして、この突破口は意外なところからもたらされた。ゾウだ。  プロジェクトCETIは過去5年間にわたり、カリブ海のドミニカ沖でクジラ数百頭の生活を記録し、地球上で最も神秘的な生物の一つであるマッコウクジラのコミュニケーションについて驚くべき発見をした。彼らは、この研究が新たな保護運動を呼び起こし、マッコウクジラのより良い保護につながることを期待している。  ベグシュ氏によれば、「母音」の発見のきっかけは2年前にさかのぼる。プロジェクトCETIがゾウの研究者マイケル・パルド氏とジョイス・プール氏による講演を主催したところ、それがマッコウクジラの声の分析へのアプローチを見直す助けとなった。  パルド氏は講演で、ゾウは自分の名前を聞くと、数分たってから反応することがあると述べた。「ゾウは必ずしも、私たちのような時間軸ですぐに反応するわけではありません」  この言葉を聞いたベグシュ氏は、時間の体験において、クジラはヒトよりもゾウに近い存在ではないかと考えた。クジラは世界最大の動物だ。妊娠期間は長く(14~16カ月)、授乳期間も長く(2年。最長で8年)、寿命も長い(約70年)。深海では、心臓の鼓動は1分間にわずか2回だ。コミュニケーションも同じくらい遅いのではないだろうか?  この疑問の答えを探るため、ベグシュ氏とそのチームは、プロジェクトCETIのクジラ学者で、ナショナル ジオグラフィックのエクスプローラー(探求者)でもあるシェーン・ゲロー氏が集めた1000以上の録音データを精査した。  特注の機械学習モデルで興味深い鳴き声を特定した後、それらの音を詳しく分析した。「コーダ」と呼ばれる音声パターンで構成される会話のスピードを速め、ヒトの話し言葉のペースに近づけると、クジラの声は全く新しいものになった。  通常の速度では、コーダは単純なクリック音の連なりに聞こえた。しかし、録音データの再生スピードを速めると、新たな特徴が聞こえてきた。ヒトの母音に似た音だ。 「表面的には、彼らのクリック音は私たちの母音とは似ても似つきませんが、それは彼らのクリックが遅く、私たちの母音が速いためです」とベグシュ氏は言う。「彼らのクリック音から無音部分を除去し、クリック音を速くすると、私たちの母音に似たパターンが現れます」  ベグシュ氏らはマッコウクジラが使用する二つの母音、aとiに相当するものを特定した。分析を進めていけば、さらに多くの母音が明らかになるとベグシュ氏は考えている。  マッコウクジラのコーダに母音が存在すれば、コーダに意味を込める方法の多様性と柔軟性が劇的に高まる。ヒトの母音が、ほぼ無限の音の組み合わせを可能にしているのと同じだ。  類似点はそれだけではない。クジラは口で「話す」わけではないが、ヒトと驚くほどよく似た構造でこれらの母音を発する。マッコウクジラの頭部には、音唇と空気嚢(のう)があり、これらを使って音を精密にコントロールしている。ヒトがaやiを発音するため、口の形を変えるのと似ている。  また、ベグシュ氏らはコーダに二重母音と名付けた要素も発見した。これは英語話者が「ボーイ(boy)」と言うときのように、発音時に一つの母音から別の母音へ滑るように移行する様子を指す。  この二重母音は、マッコウクジラのクリック音が単なる0か1かの二進法的なものではないことを示している。むしろ、調光スイッチのようにさまざまな特性を持ち、すべてが意図的で、おそらく意味を帯びている。  ベグシュ氏はコーダのシステムについて、「すっきりしていて、洗練されており、精密です。これほど構造化され、意図的に見えるものは知りません」と感想を述べている。  母音に関する今回の論文は、マッコウクジラの鳴き声の微妙な差異を分析したプロジェクトCETIの先行研究がもとになっている。  プロジェクトCETIに参加する米マサチューセッツ工科大学(MIT)の研究チームが2024年5月7日付けで学術誌「Nature Communications」に発表した論文は、テンポ、リズム、ルバート、装飾音という音楽用語を用い、マッコウクジラのコーダに新たな4つの特性が存在することを明らかにした。これらの特性の微妙な変化が、さまざまなコーダの「発音」を構成している。  約9000の録音データを分析した結果、既知のコーダは21種類から156種類以上に拡大した。コーダのレパートリーが増えることは、マッコウクジラが表現できる内容が広がることを意味する。  この母音に似た音の発見は「これまでの研究成果をはるかに超えています」とナショナル ジオグラフィックのエクスプローラーで、プロジェクトCETIの創設者兼代表でもあるデビッド・グルーバー氏は言う。「彼らの声の中に、私たちが知らなかった新たな複雑さとニュアンスが加わりました」  これまでのところ、プロジェクトCETIはコーダに意味を割り当てようとはしていない。マッコウクジラが何を語り合っているのかを理解するには、遠い道のりが待っている。それを実現するには、さらなるデータと計算能力が必要なだけでなく、マッコウクジラのコミュニケーションに伴う行動をはるかに深く理解しなければならない。

文=Camille Bromley/訳=米井香織

ナショナル ジオグラフィック日本版

関連記事: