30年の沈黙を破ったSF作家が問う現代社会の“原罪”
優れたサイエンス・フィクションは、現実世界とは異なる人生や時代のあり方を見せることで、読む者に新しい視点を与えてくれる。わたしたちによく似た登場人物が、わたしたちの世界とまったく異なる、あるいはどこか重なる部分のある異世界を探究する。
そして、わたしたちとは似ても似つかない存在──AI搭載のサイボーグや、光合成をする植物人間、架空の社会で生きる人間たち──が、感情に基づいて行動し、道徳的な決断について思い悩む。それを読むわたしたちは、こうした物語が自分たち自身の生き方にどのような示唆を与えうるのかを考える。
これは「認識異化」効果とも呼ばれる。この用語は1970年代に学者のダルコ・スーヴィンが提唱したもので、SFの世界が奇妙でありながらもその虚構の宇宙における理解可能なルールに従って成立しており、読者の現実の感覚に照らしても納得できるものとして描かれることを表している。
偉大なSF作家は、当然ながら認識異化の達人だ。そうした作家のなかには、長く成功したキャリアを歩む者もいれば、筆を折ったり、姿を消したり、あるいは数十年の沈黙ののちに突然戻ってくる者もいる。2026年、まさに突然SF界に帰ってきた小説家が、キャメロン・リードだ。
彼女のデビュー作『The Fortunate Fall(幸運な落下)』(1996)[未邦訳]はドストエフスキーを思わせるクィア・サイバーパンク作品で、高い評価にもかかわらず手に入りにくい、いわばアンダーグラウンドの古典となった。
この作品が舞台とする権威主義化した近未来のロシアでは、娯楽の大半とすべてのニュースが「カメラ」と呼ばれる人々を通じて届けられる。カメラたちは、自らの体験を脳から直接インターネットへ送信するよう配線されている。
カメラを管理するのが「スクリーナー」で、その役割はカメラが情報過多に陥ったり検閲対象の情報を共有したりしないよう監視することだ。悲劇的な主人公であるカメラのマヤは、自国の真の歴史、AIに支配された世界の実態、そして自らの知られざる過去を明らかにしていく。
物語は、ウクライナのホロドモールのような20世紀の惨事にも目を向けつつ、ソーシャルメディアがわたしたちの内面生活を絶えず脅かすという予見的な問題にも触れる。もしわたしたちも、自分の経験が──自己イメージ、価値観、セクシュアリティなどもすべて──毎日届けられる没入型の映像で置き換えられたらどうなるのか? わたしたちは何を失うのか、そしてそれを取り戻したいと思うのだろうか?
『The Fortunate Fall』の後にリードは短編を1作発表し、ジェンダーをテーマにしたSFのうちその年最も優れた作品に贈られるティプトリー賞(現在のアザーワイズ賞)を受賞した。だがその後、リードは27年間にわたって沈黙した。批評家やファン(そしてわたし)が連絡を取ろうと試みるも叶わず、彼女が生きているのかどうかさえわからない状態だった。
だが、ついに彼女は再び姿を現し、BlueskyやMastodonで@LateOnsetGirlという名のアカウントで投稿を始めた。24年には、作品の長年続く影響力が評価され、Tor Booksが現代SFファンタジー古典シリーズの一環として『The Fortunate Fall』を再刊した。
よみがえった認識異化の達人
そして同社は26年4月、リードの新作長編『What We Are Seeking(わたしたちが探し求めるもの)』を刊行した。この作品は前作よりも長く、より喜びに満ち、より野心的で、少なくとも同じくらい認識異化の威力をもつ。つまり、新しい世界の構造や社会を示すことで、わたしたち自身の世界を新鮮な視点で見させてくれるのだ。
『The Fortunate Fall』は、配線まみれの荒々しい近未来を描くジャンル、サイバーパンクにおける最後期の主要作品とも言える。一方、『What We Are Seeking』(タイトルはエドナ・セント・ヴィンセント・ミレイの詩に由来する)は同じSFのなかでも別の領域に属する。