フリーランスライターが「幸運を最大限活用する」行動心理学者の教えを実践して変わったこと
先週、筆者が本当に体験したことです。
仕事からの帰り道、電車に乗ったときに座席にスマホが落ちているのを見つけました。電車から降りて、自宅に向かったところ、路上に財布が落ちていました。そのしばらくあと、道端の10円玉が目に留まりました。
スマホや財布は落とし主に届けられ、10円玉はコンビニの寄付箱に収まりましたが、筆者は時々こうした経験をします。そのたびに、「運とは、なんなのだろうか」と考えます。
科学の世界では、偶然とか蓋然性といった説明がなされますが、偶然が重なったとき、人は誰しも運という言葉を思い浮かべるものです。
そもそも運ってなんだろう?
運について考えるためにもう1つ、筆者の若いころの体験を記しましょう。
その日は、前日の夜遅くまでゲームをしたおかげで、少し寝坊してしまいました。それでその日、訪問する予定だった得意先に遅刻しそうになり、途中からタクシーを使う羽目に。前夜の疲れが尾を引いて、得意先ではキレのあるやりとりができず、時間も押してしまいます。そのせいで、2社目の訪問もあやうく遅れそうになりました。ダメ押しで、3社目のアポイントにも遅刻しそうに。
結果、1日3回も自腹でタクシー代を払うことになってしまったのですが、これは「運が悪かった」と言えるでしょうか?
人によっては、「不運が続いた」と解釈するかもしれません。でも、筆者の考えでは違います。しっかり眠って体調を万全に整えておいたら、こんなことは起きなかったはずだから。
つまり、私は「人がコントロールしようと思えばできたこと」は運とは呼ばず、一見「コントロールできないこと」が運だと考えています。
行動心理学の専門家が考える「運」とは?
誰でも幸運に恵まれたいとは思うはずですが、人の力が及ばない運を、増やすことはできるのでしょうか。
この難しい問いに真っ向から取り組んだ書籍が、先般刊行された『「運のいい人」の科学 強運をつかむ最高の習慣』(SBクリエイティブ)です。
著者のニック・トレントン氏は、アメリカのライフコーチで行動心理学の専門家。もともと、成功する人の行動原則を探求していて、そこで運というものに注目したそうです。
読んでみると、良運をつかむ実践的なヒントが満載。繰り返し味読し、できることから試してみました。取り組んでまだ2カ月ほどですので、目を見張るような運はつかめていませんが、たしかな手ごたえを感じています。
今回は、それについて話していきましょう。
トレントン氏によれば、運のいい人には、明らかに共通する性質・思考パターンがあるそうです。それらを身につければ、どんな幸運も「それを最大限に生かすことができる」と太鼓判を押しています。
その1つが「努力」です。これは意外に思えますね。トレントン氏も指摘していますが、「努力と運は正反対の概念」というのが一般的な通念だからです。
ですが、運に恵まれている人たちは、例外なく努力家なのだそうです。もう少し解像度を上げた言い方をすると、「できることは何でもする。一度幸運に恵まれると、その幸運を徹底的に活用する」という姿勢を貫いているのです。
本書では、1人の写真家の例が挙げられています。その人は、優れた写真でコンテストに入賞します。多くの応募作品から選ばれたのですから、これは幸運と言えます。
ですが、その写真家は、受賞に値する1枚を撮るまでに、何百枚もの失敗作があり、いくつものコンテストに応募してきたのです。さらには、撮影技術を高めるために講座を受けたりするなど、修練を重ねてきました。
トレントン氏は、幸運をつかむための努力は「並大抵」ではないと言います。そして、「とにかく時間を惜しまず努力しましょう」と、読者にエールを送ります。
「賢く」努力をすることがポイント
ここまで読んで、「いきなり無理難題じゃないですか」と思われたかもしれません。筆者も最初はそう思いました。なぜなら、みなさんすでに努力をしているからです。
ただ、ここで重要なのが「賢く努力する」ことです。
ある目標に向けて、うまくいってないのに、やみくもな努力をしていることはありませんか? 心当たりがあるなら、目標自体に無理があるか、努力の仕方に問題があるか、精査してみることです。
筆者にとって、それは写真コンテストでした。奇しくも上の例とかぶりますが、とあるコンテストに出しては落選するを繰り返していたのです。
ですが、コンテストの審査員の求めるものが自分の作風とは異なるのではないかと思い至り、きっぱり応募をやめることにしました。向こうに気に入れられるよう、作風を曲げてまで応募はしたくないな、と。
それにより浮いた時間とエネルギーを、ほかのことに振り向けることにした結果、別のチャンスがもたらされました。
人生で歩める道は、たくさんあります。ですが、すべての道を歩くのは無理な話なので、どこを歩くか、今歩いている道で本当にいいのかを再考するのは、意味があることです。