アメリカとイランの終戦合意などお構いなし? レバノン攻撃をやめないイスラエル・ネタニヤフ首相、「強硬姿勢」の背景にある「鉄の壁」思想と汚職裁判

 * * *  6月14日、アメリカとイランは戦争を止めることに合意し、14項目の覚書(MOU)をとりまとめた。ホルムズ海峡も開放される。イランの核開発の問題については、これから60日間で協議するという。  しかし、この合意が今後着実に実施されていくのか、予断を許さない。今回の覚書はイランに有利な内容になっており、停戦を急いだトランプ大統領がイランの罠にはまったようにも見える。  そして、この終戦合意にもかかわらず、イスラエルはレバノン攻撃を続けている。ネタニヤフ首相はどうしたいのか。

 アメリカとイランの14項目の覚書では、まずは「レバノンを含む全て‌の前線での軍事行動を即時かつ恒久的に終了する」となっている。以下、その他の主な合意項目を見ていく。 ●ホルムズ海峡については、30日以内に完全に開放する。アメリカも対イラン海上封鎖を解除し、30日以内にイラン周辺から米軍が撤退する。●イランに対する全ての制裁を解除し、イランの資産凍結を解除する。そして、イラン復興のために、3000億ドルの民間基金を準備する。●イランは、核兵器を保有しない。●イラン産原油の販売を認める。  主要点は以上の通りであるが、イランに有利な内容であることから、アメリカ国内でも批判の声が高まっている。

 たとえば、イランが核開発しないと言っても、それをどう検証するのか。詳細は、今後60日の協議に委ねられるが、2015年の核合意よりも後退しているとの見方もある。そうであれば、何のために戦争をしたのか、全く意味がなかったことになる。  今回の戦争で、イランはホルムズ海峡を支配する権利を国際的に誇示した。海峡封鎖により原油価格は高騰し、世界経済を大混乱に陥れた。


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 アメリカとイランの終戦合意にもかかわらず、イスラエルはレバノン攻撃を続けている。覚書では、レバノン全域での戦闘及び軍事行動の終結とレバノンの領土保全を尊重することが確認されていたが、イスラエルは全く無視している。イスラエルはヒズボラを攻撃し、レバノン南部に軍を駐留させている。このイスラエルの強硬姿勢はなぜなのか。  ヒズボラは、「アッラー(神)の党」という意味である。1982年のイスラエル軍の越境攻撃に対抗する目的で結成されたが、シーア派の親イラン政党で強力な武装組織であり、レバノン政府軍に勝る軍事力を保有している。  イラン革命を主導したホメイニの教えに忠実で、イラン革命防衛隊から訓練を受けており、イスラエルを殲滅することを目的としている。  イエメンのフーシ派と同様に、ヒズボラはイランに従属する勢力であるが、フーシ派と異なり、ヒズボラは国境を接してイスラエルと対峙している。イスラエルの安全保障の観点からは、ヒズボラを封じ込めることが肝要である。  レバノンは、第一次世界大戦後にフランスの委任統治領(当時はシリアの一部とされた)となったが、1943年にシリアから分離、独立した。  民族も宗教も多様なモザイク国家である。それだけに内部対立、とりわけキリスト教徒とイスラム教徒の争いが続いた。しかし、政治権力の主要ポストを分け合う(キリスト教マロン派から大統領、イスラム教スンニ派から首相、イスラム教シーア派の分派ドゥルーズ派から国会議長を選出する)ことによって、宗派間のバランス維持にも努めてきた。国会の議席数も、キリスト教徒5:イスラム教徒5の比率である。  ところが、1948年のイスラエル建国とともに、多数のパレスチナ人が難民としてレバノンに逃れてきたため、さらにモザイク模様が複雑になった。そのため、国内での対立・紛争が激化していったのである。

 ネタニヤフ首相は、ワルシャワ生まれの父ベンツィオンと母ジラの次男として、1949年10月21日に、テルアビブで生まれた。祖父はシオニストのネイサン・ミレイコフスキーで、その教えは息子のベンツィオンに受け継がれた。ベンツィオンはコーネル大学の歴史学教授で、ジャボチンスキーの側近でもあった。  ジャボチンスキーは、1880年10月18日にロシア帝国のオデッサに生まれた。文才のあるジャボチンスキーはジャーナリストとして活動を始めるが、1903年のキシナウのポグロム(ユダヤ人迫害)の後、ユダヤ人の自衛軍事組織を設立する。1904年にヘルツル(イスラエル建国の父、シオニスト)が逝去すると、ジャボチンスキーは右派シオニストとして台頭する。  1920年の反ユダヤ暴動のとき、ジャボチンスキーは武装自警団を組織し、イギリス当局に逮捕された。その後、特赦されたジャボチンスキーは、パレスチナ最初の立法議会に当選した。そして、1921年には、国際シオニスト機構の行政委員に選ばれた。  ジャボチンスキーは、アラブ側に妥協的なシオニスト執行部を去り、1923年、パリのロシア語シオニスト機関紙に「鉄の壁、アラブ人と我々」という論文を発表した。日本語版がないので、フランス語版から引用する(筆者訳)。  まず、ジャボチンスキーは「どのような形であれ、パレスチナのアラブ人を追い出すことは、私には不可能に思える」と断言し、「われわれとアラブ人との和解は、今も将来もない」とする(Vladimir Jabotinsky、"Le Mur de Fer"、2022、p31、32)。そして「武力による保護、アラブ人が崩すことのできない鉄の壁の保護が必要である」(同上、p43)と主張する。  ネタニヤフ首相の父ベンツィオンは、ジャボチンスキーの秘書を務めていた。ネタニヤフ、そして彼が率いる政党リクードは、ジャボチンスキーの強硬姿勢、「鉄の壁」思想を受け継いでいる。

NEWSポストセブン
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