ベンツの助手席に100万円の束がゴロゴロ→自宅は2DKの質素な賃貸マンションに…1000億円を動かした“伝説の相場師”の意外すぎるプライベート(文春オンライン)

〈「君たちの顔が借用書だ」の一言で1億円を3日で回収…株式市場を席捲する“伝説の相場師”の資金源だった“政財界の黒幕”の正体とは〉 から続く 【画像】37歳にして待望の長男を授かり、お遍路姿で四国八十八カ所の札所を巡った…「プライベートは意外と質素」“伝説の相場師”加藤暠の写真を一気に見る  かつて投資家集団「誠備」を率いて株式市場を席巻し、最盛期には1000億円を優に超える資金を動かした、伝説の相場師、加藤暠。その人脈は福田赳夫や中曽根康弘、小泉純一郎などの大物政治家から高級官僚、大物右翼、暴力団組長にまで張り巡らされていたという。  ここでは、 『株の怪物 仕手の本尊と呼ばれた男・加藤暠の生涯』 (宝島社)より一部を抜粋して紹介。1970年代後半から80年代初頭、仕手戦において多大な影響力を持ち、表では派手な言動を繰り返していた加藤。しかし一方で、プライベートの暮らしぶりは驚くほど質素だったという。勢いを増していく当時の様子を振り返る。(全6回の5回目/ 続きを読む ) ◆◆◆  当時の加藤にとって1億円は人生を左右するほどの大金ではなかった。加藤はすでに1977年(昭和52年)12月には「株式受託売買高第1位」として会社から賞状を授与され、トップセールスマンの座を不動のものにしていた。加藤の岡三証券時代の同期だった高谷利彦は、黒川木徳証券に入った当時と比べ、その変貌ぶりに啞然としたという。 「最初は、政治家とも暴力団とも付き合いはありませんでした。ところがある時期から人脈も、金銭感覚もガラリと変わってしまった。証券マンなら1万円のお金だってきっちり管理するものですが、当時の加藤は、運転手付きのベンツに乗って、助手席には100万円の束が転がっているようなだらしない面が見え始めていました」

 加藤自身も、のちに顧客から提起された民事訴訟に証人として出廷した際、その変化を赤裸々に語っている。以下は、1987年6月1日に行なわれた口頭弁論の速記録からの抜粋である。 〈今でも覚えているのは、まだ駆けだしのころ、東洋工業のコスモという車に最初に乗っていたんですが、トランクに現金で幾ら入るかというんで15億ぴったんこ入りました。それはそのときの受渡しの半分の金額でした。で、それ以降はもっと金額がいっぱいの受渡しも多くなってますので、木徳証券の運転手さんと私どもの運転手さんとで両方2、3台で行くケースが多くなりました〉  加藤は、「最高は、100億近い数字が一回で動いたかもわかりません」と答え、クルマだけでなく、10数億をジュラルミンケースに入れたり、小切手や裸のまま現金で運んだと語っている。1979年になる頃には顧客の質も明らかに変化していたという。 〈非常に忙しくて、お参りも兼ねてましたので、もう億以上でないと受けられませんので、人数は数十人ですけども、金額はもう一口100億とか一口400億とかそういう単位でのお客さんしか私は扱ってませんで、金額的には1000億は下らなかったと思います〉  加藤側の並木弁護士が、「加藤外務員のところにお願いをいたしまして株の売買をやってもらう方は、資金上100億から400億ぐらいのものを持って行く方が当り前だと、こういうことですか」と尋ねると、加藤はこう答えている。 〈ええ。ただ、国会議員の方では後援者の都合でそれだけ集まらない方は中には5億とか8億という方もいらっしゃいましたけれども、大体数十億以上と〉  国会議員とのカネの受渡しは、人目のある議員会館ではなく、個人事務所で行なっていたとして、「先生、この銘柄でいきますよ」「いいよ」という簡単なやり取りで一任されていたとも明かしている。

文春オンライン
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