量子の次は「脳」? コンピューティング × 神経科学が上書きするもの

大阪・関西万博のスイスパビリオンで、6月12日より新しい企画展「Life/生命」がスタートした。注目の展示は、「脳オルガノイド」を用いたチップ上の脳神経回路網だ。培養した複数の脳オルガノイドを小さな電極で接続し、脳細胞のコミュニケーションを再現している。

「チップ上の脳神経回路網」(ドゥンキー智也【池内研究室】、MaxWell Biosystems AG)の展示スペース。

PHOTO: MISA SHINSHI

ヒトの幹細胞(主にiPS細胞やES細胞)を培養して生み出される脳オルガノイドは、実際の脳の一部の機能や組織構造を模倣でき、発生学、疾患研究、薬剤のスクリーニングなどにおいて注目されている。

チューリヒに本拠地を置くMaxWell Biosystems AGは、2016年にスイス連邦工科大学チューリヒ(ETH Zurich)からスピンオフして設立されたバイオテック企業だ。脳オルガノイドを「生きたコンピューター」として活用し、生体の神経ネットワークを計算システムとして用いるビジョンをもち、先駆的な研究者たちと提携している。

「CPUやGPUの次に来ると言われているのがQPU(Quantum Processing Unit、量子処理装置)です。そして、わたしたちを取り巻くコミュニティの多くは、それに続くであろう次のプロセッサーをBPU(Brain Processing Unit)と呼んでいます」 。MaxWell Biosystems AGでチーフ・コマーシャル・オフィサー(CCO)を務めるマリー・オビエンは、ほがらかな笑顔で説明する。だが、彼女は冗談を言っているわけではない。同社は現在、脳を基盤としたコンピューターの実現に向けて、不可欠となる次世代ツールの開発に本気で取り組んでいる。

同社が開発する高密度微小電極アレイ(HD-MEA)技術は、従来の神経科学とコンピューティングの概念を根本から変えようとするものだ。「わたしたちのテクノロジーの中心にあるのは、電子回路と生物細胞の、ちょうど中間にあるインターフェイスです」と、MaxWell Biosystems AGの最高経営責任者(CEO)ウルス・フレイは話す。

PHOTOGRAPH: TIMOTHÉE LAMBRECQ

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HD-MEAは、神経細胞とコンピューターのあいだで情報をやりとりするデバイスだ。内部には2mm×4mmのCMOSチップがあり、その表面には26,400個もの微小な電極が並ぶ。この上で神経細胞を培養することで、個々のニューロンの電気的な活動を細かく読み取れるのだという。電極を用いてニューロンに電気刺激を加えることもでき、特定の細胞に情報を書き込むような操作も可能だ。

フレイは「わたしたちのデバイスを使えば、神経細胞の活動を読み取るだけでなく制御もできます。記録とフィードバックの両方を実現することで、コンピューターと神経細胞が双方向に通信できるようになるのです」と、続けた。

脳オルガノイドが実現する個別化医療

胚性幹細胞(ES細胞)や人工多能性幹細胞(iPS細胞)からつくられる脳オルガノイドは、よく「小さな脳」と呼ばれる。そこに意識が生まれうるのではないかという議論自体は、生命倫理の観点からは重要かもしれない。しかし実際のところ、脳オルガノイドは「小さな脳」ではない。脳という器官を縮小したものではなく、脳がどのようにして形づくられていくのか、ガラス皿の上で発生プロセスを三次元的に再構成しているに留まる。

一方、小さくても非常に有用だ。ヒトの脳がいかに形づくられるかを実験室で再現できるということは、実際の神経細胞で神経難病の原因を探求できる可能性を拓く。

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脳オルガノイドをHD-MEA上で培養し、測定すると、オルガノイドの内部で起きる神経活動を細胞単位でリアルタイムに記録できる。しかもそれは、単に神経発火のスパイクを観察するという低解像度なものではない。記録と刺激の双方向性をもつこのデバイスを用いれば、例えば特定のニューロンの発火タイミングを操作し、その変化が周囲のネットワークにどのような影響を及ぼすのかをミリ秒単位で追跡できるのだ。

「例えばALS患者由来のiPS細胞からつくったオルガノイドと、健常者のものとを比較したとき、その電気的な“ふるまい”の違いを、個々の細胞レベルでも神経ネットワーク全体レベルでも捉えることができます。これは、神経科学に革新的な進歩をもたらす情報になりうるでしょう」とオビエンは言う。

こうした神経細胞の電気的なふるまいは、光学顕微鏡では捉えられない。また、細胞が正常に見えても、神経回路としての機能に異常があるケースも考えられるのだ。HD-MEAはそのギャップを埋めるだろう。

すでに23カ国にある数百の研究所や、大手製薬企業の多くがMaxWell Biosystems AGのデバイスを使用している。

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産業のなかで、創薬分野は特に大きなインパクトを受けるはずだ。薬剤が細胞の活動をどのように変えるのか、あるいは脳全体のネットワークのバランスをどのように崩すのか。MaxWell Biosystems AGはそれらを定量化し、アルゴリズムで比較し、研究者や製薬企業にとって“使えるデータ”を提供している。トップクラスの製薬企業数社との共同研究も進んでおり、日本では京都大学iPS細胞研究所 CiRA(サイラ)、東京大学などが名を連ねている。

「神経科学の革命と言えば、やはりiPS細胞でしょう。以前は、胚から初代細胞を採取する必要がありましたから。神経細胞は分裂しませんし、要はヒトから採取するのが困難だったということです。しかしiPS細胞があれば、ガラス皿の中でヒトの細胞を使った疾患モデルをつくり、病気の原因や治療法の研究を進められます。わたしたちの技術はその利点を最大化するものです」とフレイは語る。

現在はまだコストが高すぎるが、将来的には、同社の技術が個別化医療の実現に貢献する可能性もあるという。フレイは「医師があなたの細胞を採取し、あなたの脳オルガノイドで治療をテストするということが本当に起こるでしょう」と補足した。

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MaxWell Biosystems AGは現在、脳オルガノイドをつなげ合わせた「コネクトイド」と呼ばれる神経組織モデルの開発に取り組む東大教授・池内与志穂と共同研究を進めている。通常、脳オルガノイドは単体で培養されるが、ヒトの脳は視覚野や運動野といった異なる領域が互いに信号をやりとりしながら機能している。コネクトイドは、こうした領域間の“対話”を模倣するために複数のオルガノイドを接続するという設計思想にあり、ひとつのオルガノイドでは再現できない“脳の複雑さ”に踏み込んでいる。

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人工知能を超える可能性

オビエンのいうBPUの構想は、実験レベルでは実現に向かっている。オーストラリアの研究グループは、ヒトまたはマウス由来の神経細胞を用いて、MaxWell Biosystems AGのテクノロジーと生きたニューロンをコンピューター上のシステムに統合し、ビデオゲーム『Pong(ポン)』を模した環境に組み込んだ。すると、ゲーム開始から5分以内に「学習」らしき反応を示したという。この研究は、脳の神経回路をデジタル技術と組み合わせることで、シリコンだけでは実現できないような自律的で柔軟な情報処理が可能になる未来を提示している。

PHOTOGRAPH: TIMOTHÉE LAMBRECQ

このアプローチの利点のひとつは、圧倒的なエネルギー効率だ。現在のChatGPTやDeepSeekといったAIの大規模言語モデルが巨大なGPUクラスターと膨大な電力に支えられているのに対し、フレイは「例えばハチのように小さな脳でも、非常に少ないエネルギーで多様なタスクをこなせます。そこにわたしたちは大きな可能性を見い出しています」と話す。

神経細胞が処理する情報は、生きている。記憶され、変化し、やがて学習する。MaxWell Biosystems AGのHD-MEAが切り拓くのは、トランジスターではない、“生物そのものが演算を担う”という、まったく異なるコンピューティングだ。AIモデルが巨大化する一方で、より小さく、より省エネで、より柔軟な知性の可能性が生まれようとしているのだ。

大阪・関西万博 スイスパビリオン

PHOTO: MISA SHINSHI

大阪・関西万博のスイスパビリオンで展示中の「チップ上の脳神経回路網」(ドゥンキー智也【池内研究室】、MaxWell Biosystems AG)。8月11日まで、連結させた脳オルガノイドを顕微鏡で観察できる。ぜひ、脳を基盤としたコンピューターの未来に触れてみてほしい。

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(Edit by Erina Anscomb)

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