iPhone「米国生産」で貿易赤字縮小の大誤解、トランプ氏が間違えるのは無理もない国際収支統計の“欠落”(ダイヤモンド・オンライン)
● iPhoneに高関税かけても効果は限定的 ファブレス製造業の実態反映しない国際収支統計 トランプ・アメリカ大統領は、iPhoneの生産をアメリカに移せと主張している。そうすればアメリカで雇用が生まれ、所得が生まれる。そしてアメリカの製造業が復活するという。 実際にはiPhoneは中国などで組み立てられており、それをアメリカが輸入している。このため、アメリカの貿易赤字が膨らんでいる。こうした現状を変えるため、iPhoneの輸入に関税を課すと言っているのだ。 しかし、この考えは全く間違いだ。それだけでなく破壊的だ。仮にそのようなことを行えば、アメリカの豊かさは大きく損なわれるだろう。 iPhoneという製品の価値がどのような段階を経て生み出されるかを見ると、付加価値の生産は、Appleの本社での設計と台湾メーカーが担う半導体の受託製造で多くが生み出される。中国で行われている組み立て工程をアメリカに移したところで、アメリカ内の付加価値生産は数%程度増えるだけだ。 だが現在の国際収支統計は、いわゆる「ファブレス製造業」の設計や受託生産はアメリカの輸出には計上されない仕組みだ。 現在の先端的な経済活動の実態を反映しておらず、iPhoneの輸入に高率関税をかけて、iPhoneの生産プロセスを破壊したとすれば、iPhoneの付加価値を生産する全活動が成立しなくなるかもしれない。 これはアメリカに極めて大きな損失を与えるだろう。
● 価値のほとんどはアメリカの設計段階で生産 中国で生産された付加価値は4%未満にすぎない この問題を考えるために、付加価値の生産という観点から考えよう。 最初の段階はiPhoneの設計だ。特に重要なのはiPhoneの頭脳に当たるロジック半導体の設計だ。この過程はアメリカにあるAppleの本社で行われる。これによって生産される価値を、VAと書くことにしよう。 次の過程は、ロジック半導体の製造だ。これはAppleの設計に基づいて、台湾の半導体受託製造会社(ファウンドリー)であるTSMCが行う。ここで付け加えられる価値をVSと書くことにしよう。ロジック半導体の価値は、VA+VSになる。 さらに、さまざまな部品(例えばカメラやメモリなど)が、日本や韓国を含むさまざまな国で生産される。ここで付け加えられる付加価値をVJと書くことにしよう。 次に登場するのが、台湾の受託製造企業ホンハイだ。同社は、以上で生産された半導体や部品を用いて、中国などにある組み立て工場で最終製品に組み立てる。ここで付け加えられる付加価値をVCと書くことにしよう。 したがって、完成したiPhoneは、VA+VS+VJ+VCの全体価値(VT)を持つことになる。 完成したiPhoneは、アメリカなどの各国に輸出される。全輸出中のアメリカの比重をαとすれば、アメリカはα×VTの価値のiPhoneを中国などから輸入していることになる。 各段階で付け加えられた付加価値は、VTの中でどの程度の比重を占めているのだろうか? ある研究は次のように結論している(注)。 (1)中国からアメリカへのiPhoneの輸出のうち、実際に中国で生産された付加価値VCはVTの4%未満にすぎない。 (2)アメリカが付け加えた設計段階の付加価値VAはiPhone販売価格の30%以上を占めるが、これは貿易黒字として計上されていない(注)。 他にもさまざまな実証分析が行われているが、多くの研究が、VAの比率が3割から4割であるのに対してVCの比率は数%にすぎないとしている。 (注) Xing, Yuqing and Detert, Neal (2010). "How the iPhone Widens the United States Trade Deficit with the People's Republic of China". Asian Development Bank Institute Working Paper Series, No. 257 ● iPhoneの生産プロセスを破壊すれば 付加価値を生産する全活動が成立しなくなる Appleがアメリカ国内で生産している価値が極めて巨大であることは、時価総額を見ても明らかだ。Appleの時価総額は2.9兆ドル程度だ(2025年6月中旬)。これは、日本のプライム市場の時価総額合計(954兆円、1ドル=145円で6.6兆ドル)の約44%に相当する巨額なものだ。 また、Appleが設計した半導体を生産している台湾のTSMCの時価総額もかなり大きい。1.1兆ドル程度であり、日本のどの企業の時価総額より大きい(トヨタの2236億ドルの5.1倍)。これは、高性能半導体を製造する作業が極めて高度なものであることを反映している。 これに対して、中国やインドなどで行われている最終組み立て工程は、不可欠ではあるが、半導体の設計や製造に比べれば、それほど難度が高いものではない。 普通の組み立て工員でも、一定の訓練を経れば行えるだろう。そうであれば、この段階での付加価値がそれほど巨大なものにならないのも当然のことだ。 だから、仮にiPhoneの最終組み立て工程を中国などからアメリカに移したとしても、それによってアメリカでの付加価値(労働者の賃金と企業利益など)は、iPhoneの価値の数%分しか増えないことになる。これはほとんど無視し得るものだろう。 それに対して、仮にiPhoneの輸入に高率関税をかけて、現在のiPhoneの生産プロセスを破壊したとすれば、iPhoneの付加価値を生産する全活動が成立しなくなるかもしれない。つまりAppleという企業が成り立たなくなるかもしれない。
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● 受託生産契約は国際収支に記録されず 新しい統計作成の試みはあるが… 以上で述べたのは、明々白々のことであるにもかかわらず、トランプ氏がiPhoneの国内生産にこだわる一つの理由は、ファブレス製造業の経営実態が国際収支統計には適切に表れていないことだ。 国際収支統計に表れているのは、中国で生産されたiPhoneがアメリカに輸入されるという取引だ。それに対して、その他の取引はほとんど国際統計には表れない。特に重要なのはVAの部分だ。 仮にこれに関する現実の取引が、Appleがその生産した無形資産をTSMCに販売するという形で行われるのであれば、アメリカから台湾に無形資産の譲渡が行われることとなり、国際収支のサービス取引に反映されるだろう。 しかし実際には、AppleとTSMCが受託生産契約を結ぶという形で行われている。このため、国際収支統計には記録が残らないのだ。ホンハイが行っているのも受託契約に基づく取引であり、同じような問題がある。 結局のところ、以上の取引で国際収支統計に反映されるのは、中国などからアメリカなどにVTだけのiPhone製品の輸出が行われたということだけだ。したがって、アメリカの貿易収支の赤字が増大することになる。 このため、「iPhoneの海外生産は望ましくない」とトランプ氏が考えることになるのだ。 結局のところ問題は、国際収支統計がiPhone生産という先端的な経済活動の実態を適切に捉えていないことだ。先端的な経済活動とは、繰り返せば、次のような特徴を持つものだ(こうした特徴を持つ製造業はファブレス製造業と呼ばれる)。 1.最終製品までのプロセスで、さまざまな国が関与する。 2.最終製品の価値の中で、設計の価値が高い。 この問題はiPhoneに限ったものではない。例えば、NVIDIAなどが設計した半導体の製品も国際的な受託生産によって行われているので、同じ問題を持っている。 アメリカの経常収支赤字が拡大していることがしばしば問題とされるが、その大きな原因は、ファブレス化の進展である可能性がある。そうであれば、経常収支赤字拡大は、アメリカ経済劣化の結果ではなく、高度化の結果だということになる。 こうした状況を背景に、いくつかの国際機関で、国際収支統計を実態に合わせたものにする努力が行われている。 例えば、OECDとWTOが、TiVA(Trade in Value Added)という統計を作っている。しかし、正確な統計のためにはさまざまな制度上の制約があり、なかなかうまく進んでいない。 トランプ氏のような誤解が生じるのも、ある意味ではやむを得ないといえるかもしれない。 (一橋大学名誉教授 野口悠紀雄)
野口悠紀雄