60年間知られなかった糖尿病治療薬の『脳』への意外な働き(ナゾロジー)|dメニューニュース
糖尿病は、血液中の糖分(血糖)が正常よりも高い状態が続き、体にさまざまな問題を引き起こす病気です。
その中でも、最も広く使われている糖尿病薬が「メトホルミン」です。
この薬は、安価で副作用が少なく、60年以上も世界中の糖尿病患者に使われていますが、その詳しい仕組みは実はまだ謎が多いままでした。
これまでメトホルミンは、主に肝臓で糖が作られるのを防ぐ働きをすると考えられてきましたが、アメリカのベイラー医科大学(BCM)で行われた最新のマウス実験によって、メトホルミンが「脳」の中にある特定の経路に影響を与えることで血糖値を低下させていることが新たに発見されました。
メトホルミンは脳の中で何をしていたのでしょうか?
研究内容の詳細は2025年7月30日に『Science Advances』にて発表されました。
- メトホルミンは脳にも効くのか?
- 糖尿病治療薬メトホルミンと『脳』の意外な関係が判明
- 脳をターゲットにした糖尿病治療の新時代は来るか?
メトホルミンは脳にも効くのか?
メトホルミンは脳にも効くのか? / Credit:Canva糖尿病は、血糖値(血液中の糖分の濃度)が正常よりも高くなってしまう病気です。
その中でも特に多い2型糖尿病では、体が血糖を下げるホルモンであるインスリンをうまく使えなくなったり、インスリンが十分に作られなくなったりして血糖値が上がります。
血糖が高いままだと、体のさまざまな部分に深刻な影響を与えるため、多くの患者さんは血糖を下げる薬を飲む必要があります。
そんな2型糖尿病の薬のなかで、最も古くから使われている薬が「メトホルミン」です。
この薬は60年以上も前に登場して以来、値段の安さと安全性の高さから、今でも世界中で第一選択薬(最初に処方される薬)として広く使われています。
しかし実は、メトホルミンが「なぜ効くのか」というはっきりした仕組みは、長い研究の歴史の中でも完全には解き明かされていません。
これまでの研究では、メトホルミンは主に肝臓に働きかけて「糖新生(体内で糖を作る仕組み)」を抑えることで血糖を下げると考えられてきました。
また最近では、腸の中にいる細菌のバランスを整えたり、腸から分泌される消化管ホルモンの量を変化させたりすることで血糖値を下げる可能性も指摘されています。
ただ、こうした説明だけでは薬が「なぜ低用量でもよく効くのか」ということまではっきりと説明しきれていませんでした。
では、メトホルミンが作用する場所として、「脳」を考えてみるのはどうでしょうか。
あまり知られていませんが、脳は私たちの体の中で「エネルギー管理の司令塔」とも言える重要な役割を持っています。
たとえば、私たちがご飯を食べた後で血糖値が上がったり、お腹が空いて血糖値が下がったりすると、脳はその変化を敏感にキャッチします。
そして、肝臓に指令を出して血液中に糖分を放出させたり、逆に糖分を出さないようにしたりするほか、食欲や体全体の代謝の調整にも深く関わっています。
ところが、メトホルミンという薬がこうした脳の働きにも影響を与えるのかどうかは、これまであまり詳しく研究されていませんでした。
そこで今回、研究チームはメトホルミンと脳の関係を調べる調査を行うことにしました。
糖尿病治療薬メトホルミンと『脳』の意外な関係が判明
糖尿病治療薬メトホルミンと『脳』の意外な関係が判明 / Credit:Hypothalamus image.pngメトホルミンは脳に効くのか?
謎を解明するため研究者たちはメトホルミンをマウスの脳内に直接届けることにしました。
マウスの脳の中央にある「脳室」という空洞部分に、通常使われるメトホルミンの何千分の一(1〜10マイクログラム)という極めて少ない量を注入したのです。
その結果、非常に微量にもかかわらず、血糖値が大きく下がりました。
このとき、食事をしているかどうかは全く関係なく、薬が直接脳に働きかけていることが明らかになったのです。
つまり脳は、非常に少ない薬の量でも敏感に反応し、血糖を下げる力を持っているということです。
次に研究チームは、脳の中でも特にどの細胞が薬に反応しているのかを詳しく調べました。
すると脳の中心付近にある「視床下部」というエリアの中の「VMH(腹内側視床下部核)」と呼ばれる小さな部位に存在している特定の神経細胞(SF1ニューロン)が強く活性化していることがわかりました。
SF1ニューロンは、血糖値を適切に調整するための重要な神経細胞です。
しかもこのSF1ニューロンは、Rap1というタンパク質が存在しているときにだけ、メトホルミンによって活性化されました。
つまり、SF1ニューロンが血糖を下げるためにはRap1の働きが欠かせないことが証明されたのです。
実際、遺伝子操作によってRap1を排除した組み換えマウスの場合、メトホルミンを投与してもSF1ニューロンはうまく活性化しませんでした。
一方で組み換えマウスであっても、メトホルミン以外の糖尿病薬(インスリンやGLP-1作動薬など)を投与すると、通常どおり血糖値が下がったのです。
この結果から「Rap1がないと、メトホルミンだけが効かなくなる」という現象がはっきり見えてきました。
ここで研究チームは、もう一歩踏み込んで重要な実験を行いました。
今度は逆に、脳のVMHの中でRap1をずっと「ON」の状態(常に活性化した状態)に固定したマウスを作り出したのです。
すると、メトホルミンを投与しても血糖値がほとんど下がらなくなりました。
この結果から、脳の中のRap1が正常に「OFF」にならなければ、メトホルミンが十分な効果を発揮できないことが明らかになりました。
ある意味で、脳の配電盤でメトホルミンが密かにブレーカーを落とし、高血糖という『電流』を止めているとも言えるでしょう。
つまりメトホルミンは脳のRap1というスイッチが存在していることと、それを「OFF」にすることで、血糖値を下げていたのです。
さらに面白いことに、薬の量を高用量(200〜250ミリグラム/キログラム)に増やすと、Rap1がなくてもメトホルミンの血糖降下作用が現れました。
このことから研究チームは、薬の量によって脳が働くかどうかが切り替わる、「二段構え」のメカニズムがあると考えています。
つまり、少ない薬の量(低用量)のときは脳のRap1が主役となり、多い薬の量(高用量)では、脳以外の肝臓や腸など別の経路が主役になるという仕組みが、今回の研究で具体的に示されたのです。
脳をターゲットにした糖尿病治療の新時代は来るか?
脳をターゲットにした糖尿病治療の新時代は来るか? / Credit:Canva長らく糖尿病治療では、主に肝臓や腸などの「体の中の臓器」に直接働きかけて血糖値を下げるというものでした。
しかし今回の発見によって、脳というこれまであまり注目されてこなかった重要な「司令塔」の存在が明らかになりました。
特に、脳の中の「Rap1」というタンパク質がメトホルミンの血糖降下作用を左右するという事実は、まさに今後の治療法を考えるうえでの重要な鍵となるでしょう。
実際のところ、現在の糖尿病治療薬のほとんどは、体の末端にある臓器や細胞に直接作用するように作られています。
今回の研究で、古くから使われているメトホルミンが実は脳にも影響を与えていたという意外な事実が示されたことは、私たちが薬を開発するときの考え方を根本的に変えるきっかけになるかもしれません。
なぜなら、脳は体全体に指令を送る場所ですから、ここをうまくコントロールできれば、薬の量を最小限に抑えながら、体全体の血糖バランスを効率よく調整できる可能性があるからです。
つまり、同じ効果をより少ない薬の量で実現できれば、副作用のリスクも減らせるかもしれません。
しかし直ぐにというわけにはいきません。
今回の研究はあくまで「マウス」という動物を使った実験結果にすぎず、これが人間でも同じように起こるかどうかはまだわかっていません。
ヒトとマウスでは脳の働きや体の仕組みに違いがあるため、今回見つかった脳内のRap1の働きが、ヒトの糖尿病患者さんでも同じように作用するかどうかを慎重に確かめる必要があります。
とはいえ、こうした課題があるからといって今回の研究の意義が小さくなるわけではありません。
むしろ、こうした未知の領域が見つかったこと自体が、私たちに新たな探求の道を示してくれています。
特に脳という未開拓の領域をターゲットにすることで、今までとは違ったタイプの糖尿病薬を作り出す可能性が開けるでしょう。
将来的には、これまでの薬に比べてさらに副作用が少なく、患者さんにとっても負担の少ない治療法が生まれることも十分期待できます。
元論文
Low-dose metformin requires brain Rap1 for its antidiabetic actionhttps://doi.org/10.1126/sciadv.adu3700
ライター
川勝康弘: ナゾロジー副編集長。 大学で研究生活を送ること10年と少し。 小説家としての活動履歴あり。 専門は生物学ですが、量子力学・社会学・医学・薬学なども担当します。 日々の記事作成は可能な限り、一次資料たる論文を元にするよう心がけています。 夢は最新科学をまとめて小学生用に本にすること。
編集者
ナゾロジー 編集部