第14回:饒舌な男の沈黙と「人間の焼ける匂い」~~伝説のスカウト木庭教伝(木村公一)
木庭教という男は、誰に対しても気さくで、実によく喋る人だった。 地方球場のスタンドでも、遠征先の宿舎でも、あるいは夜の酒席でも、その周囲にはいつも新聞記者や球界関係者の輪ができていた。
広島駅前の喫茶店『マリーナ』に陣取っては、顔見知りの番記者たちを相手に、時事放談から芸能界の裏話、さらには自慢のギャンブル談義に至るまで、立て板に水のごとく喋り続けた。 だが、当時木庭番を務めていた各紙の記者たちは、一様に奇妙な感覚を共有していた。
「普段はとにかく饒舌で、面白い話をいくらでも聞かせてくれる。しかし、いざドラフトや担当選手の話になると、見事なまでに核心をかわされる。肝心なことは絶対に口を割らない人でした」
喫茶『マリーナ』の放談と踏み込ませぬ一線
明るく振る舞い、冗談を連発して周囲を煙に巻くほどに、ふとした瞬間に寄せつけない壁を感じさせる。 その心の奥底には、他人が決して土足で踏み入ることのできない、暗く深い沈黙の領域が広がっていた。
その沈黙の源流にあったのが、あの戦争の記憶だった。 木庭は生前、自らの戦争体験について、進んで多くを語ろうとはしなかった。しかし、酒が進んで夜が更けた折などに、ぽつり、ぽつりと断片的な記憶を漏らすことがあった。
1945年8月6日――閃光と地獄の淵
1945年8月6日。20歳だった木庭は、広島の街で原子爆弾の閃光を浴びた。 爆心地からそう遠くない場所で被爆した木庭の眼前に広がっていたのは、一瞬にして地獄と化した住み慣れた街の姿だった。倒壊した家屋の下敷きになって焼き殺されていく人々、水を求めて川へと折り重なるように倒れていく無数の遺体。 理不尽に奪われた夥しい数の命と、焦土と化した広島の街。木庭はその地獄の淵を、文字通り生きて潜り抜けてきた男だったのである。
手記【我がスカウト人生】の行間にも、生と死に対する木庭の抜き難い達観が滲んでいた。 「どうせ生き残ったのなら、精一杯生きること」。 博打を愛し、うまい飯を食い、人生をとことん楽しもうとしたあの奔放な生き様は、死と隣り合わせの地獄を見た男が、自らに課した生の証でもあったのだろう。
31年目の電撃退団――「定年退職」の裏にあった真実
そして、その凄惨な記憶は、木庭のスカウト人生の最大の転機においても、重く静かに横たわっていた。 1987年の秋。球界に大きな衝撃が走った。 スカウト第1号として入団以来、31年間にわたって赤ヘル軍団の礎を築き上げ、スカウト部長として黄金期を支え続けてきた木庭教が、突如として広島東洋カープを退団し、横浜大洋ホエールズのスカウトへと転身したのである。
当時、表向きに報じられた理由は「定年による退職」だった。61歳という年齢を迎え、後進に道を譲るための円満退社。また折しも古葉竹識元広島監督が、横浜大洋の監督に就任する際に、木庭氏にも声をかけた。ともに事実ではある。
しかし、広島という土地から離れた理由は、ほかにもあった。 晩年になり、木庭は夫人にこう語っていた。
「あの匂いから逃げたかった」――被爆者の切実な叫び
「広島の街の臭いから逃げたかったんよ。あの人間の焼ける匂いが、どうしても忘れられんかった……」
40年以上の歳月が流れてもなお、夏の日の閃光と、街を覆い尽くした焦熱の記憶は消え去ってはいなかった。 原爆の瓦礫の中から立ち上がり、復興のシンボルとなった市民球場を見せられて入団を決意した昭和30年代初頭から、カープが初優勝を果たし、球界を代表する強豪へと上り詰めるまでの30余年。木庭は常に広島の街とともに歩み、その誇りを背負って全国を飛び回り続けてきた。 だが、その間もずっと、木庭の鼻腔には、あの日の「人間の焼ける匂い」が焼き付いて離れなかったのだ。
愛するカープを離れ、あえて見知らぬ他球団の門を叩いた理由。 それは単なる人事や年齢の問題ではなく、ひとりの被爆者として、自らの人生の最後の時間を「あの記憶」から解き放たれた場所で過ごしたいという、切実な想いでもあった。
饒舌な笑顔の奥底に、誰にも明かせぬ壮絶な痛みを抱えながら、木庭は広島を後にした。 そして戦いの場を横浜、さらには神戸へと移しながら、木庭教のスカウトとしての「第二の人生」が始まろうとしていた。《敬称略》第15回に続く。
獨協大学卒業後、フリーのスポーツライターに。以後、新聞、雑誌に野球企画を中心に寄稿する一方、漫画原作などもてがける。韓国、台湾などのプロ野球もフォローし、WBCなどの国際大会ではスポーツ専門チャンネルでコメンテイターも。でもここでは国内野球はもちろん、他ジャンルのスポーツも記していければと思っています。