欧州に迫る現実:調査報道が暴く薬価、ガザ、移民、そしてロシア勝利の未来
去る9月25日、欧州全域での調査報道を支援するイベント「Uncovered会議」がアテネで開催された。欧州の調査報道の最前線を紹介し、国境を越えて活動するジャーナリスト、編集者、資金提供者、メディア関係者が一堂に会し、社会的影響力の高いストーリーやその背後にある課題について議論した。
同会議は、欧州連合(EU)域内で国境を越えた調査報道を支援する基金「IJ4EU(Investigative Journalism for Europe=欧州のための調査報道)」が毎年主催している。
2020年から本格稼働した同基金は、公益性の高いテーマに取り組むEU域内のジャーナリストや報道機関に助成金を付与しており、欧州委員会をはじめ公的・民間組織からの寄付が資金源だ。会議の運営はドイツを拠点とする非営利組織「ヨーロピアン・センター・フォー・プレス・アンド・メディア・フリーダム(ECPMF)」が担当し、「国際新聞編集者協会(IPI)」(本部ウイーン)、「欧州ジャーナリズムセンター」(本部オランダ・マーストリヒト)が協力した。
今年の会議で特に優れた報道に与えられる「インパクト賞」を受賞した3つの事例を通して、欧州ジャーナリストたちの問題意識を見てみたい。
欧州の医薬品制度、ガザ、移民
「致命的な代償(Deadly Prices)」は欧州の医薬品価格制度の内部に切り込む。欧州各地で、命を救う薬が必要な人々の手に届かない現実が広がっている。製薬業界は、各国の経済力に応じて価格を設定していると主張するが、本調査の分析では低所得国の方が高所得国よりも高い価格を払っている事例が確認された。過去15年間、欧州の医薬品市場では厳格な秘密保持の慣行が定着している。製薬企業は各国政府と個別に交渉を行い、「割引内容を他国に開示しない」という条件を前提に契約を締結しているため、薬価に関する実態は共有されず、政府や市民はその真の価値を知ることができない。報道チームはEU9か国で主要医薬品の推定価格を算出し、製薬大手が不透明な価格体制、ロビー活動、知的財産権の規則を悪用して欧州全体で医薬品コストを高く維持しているかを明らかにした。欧州20か国のメディアパートナーと連携して実施され、英語版に加え、ドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語でも公開された。
フランスを拠点とする非営利の報道組織「フォービドゥン・ストーリーズ」が主導した「ガザ・プロジェクト」には、18の報道機関と50人超の記者が参加した。2023年10月、イスラム組織ハマスによるイスラエル攻撃への報復として始まったガザ紛争では、多くのパレスチナ人ジャーナリストが命を落とした。プロジェクトでは、イスラエル軍の攻撃によって死亡または負傷したジャーナリストの状況を詳細に調査・報道するとともに、彼らが途中まで取材していた未完の報道を引き継ぎ、イスラエル軍の攻撃や政府の責任回避の実態を調査した。成果は「ガザ・プロジェクト」の公式サイトに掲載されたほか、仏テレビ局「フランス24」、ドイツの新聞「ディー・ツァイト」、英新聞「ガーディアン」などを通じて国際的に発信された。
調査報道組織「ライトハウス・リポーツ」が主導した「砂漠の追放(Desert Dumps)」は、欧州の資金が北アフリカで行われている人種差別的な移民排除政策を支えている事実を突き止めた。調査は米ワシントン・ポスト、ドイツの「デア・シュピーゲル」、スペインの「エル・パイス」、フランスの「ル・モンド」など計18の報道機関と協働し、1年にわたり実施された。調査の結果、欧州が意図的に資金を拠出し、時には直接的に関与して、モロッコ、モーリタニア、チュニジアの少なくとも3か国で黒人住民の拘束や強制追放を組織的に行っていることが判明した。追放された人々は砂漠や人里離れた地に放置され、一部は人身売買組織に引き渡されたという。「砂漠の追放」は、北アフリカで進行する反移民・人種差別的政策に対する欧州の関与を包括的に記録した初の調査報道として高く評価された。
受賞者にはそれぞれ5000ユーロ(約88万6000円)の賞金が授与された。今年の賞には58か国から36件が参加。報道組織やジャーナリストらで構成される審査団は独ライプツィヒ大学の評価者が作成した候補リストから受賞者を選出した。詳細は以下の公式サイトを参照されたい。
ロシア勝利で、欧州はどうなる?
ここ数カ月、欧州で話題になっているのが、ドイツの国際政治学者カルロ・マサラ氏による新著「もしロシアがウクライナに勝ったら」だ。2025年春にドイツ語版、夏に英語版と邦訳版(早川書房)が刊行された。ウクライナ戦争でロシアが勝利した場合、欧州の安全保障秩序がどのように崩壊するのかを描く、思考実験としての警告書である。
舞台はウクライナ停戦後の近未来だ。2028年3月27日、ロシアと国境を接するエストニア東端の都市ナルヴァが突如、爆発に揺れた。まもなくしてロシアの国旗が市庁舎に翻り、ソーシャルメディアには「#DayOfReturn(帰還の日)」いうハッシュタグ付きの映像があふれ出す。
ロシアによるナルヴァ奇襲を受けて北大西洋条約機構(NATO)首脳陣は緊急会議を開くが、集団防衛条項・第5条の発動をめぐって意見が割れる。米国は「第三次世界大戦を避けるべきだ」と慎重姿勢を取り、欧州の結束は揺らいだ。ロシアは小規模な勝利を重ね、西側の抑止は機能不全に陥る。
マサラ氏は戦争の現実を知る戦略学者として、核抑止を恐れる西側がどこまで防衛意思を維持できるか、アメリカの関与が揺らいだとき欧州は自立できるかを問う。そして「平和のために犠牲を払う覚悟があるのか」と読者に突きつける。英語版の刊行に際しては、英「フィナンシャル・タイムズ」は「戦略的想像力を刺激する冷徹な実験」と評し、「サンデー・タイムズ」は「政治家と外交官が読むべき必読の書」とした。ドイツ語圏でも南ドイツ新聞が「小説ではなく、現実への警告だ」と論評している。マサラ氏が提示するシナリオは、すでに動き出している現実の延長線上にある。戦争そのものよりも「戦わないことの代償」を問う書である。中東ではガザ和平の動きが続く。ウクライナでも進展があるとよいのだが。
プーチン大統領 クレムリンHPより
※新聞通信調査会が毎月発行する「メディア展望」(11月号)に掲載された筆者記事に補足しました。
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編集部より:この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2025年12月5日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。