「鹿は守るが、人を潰す」──政治的レトリックが火をつけた「ネット自警団」の心理(原田隆之)

 2025年の自民党総裁選の記者会見で、候補者の高市早苗氏が奇妙な節をつけて和歌を詠みつつ、「奈良の鹿を外国人観光客が蹴っている」と発言しました。本来であれば、国のリーダーを選ぶ場では外交や経済、安全保障といった政策課題が中心になるべきです。しかし、そこで持ち出されたのは「鹿」という話題でした。

 多くの国民にとって、これは驚きを誘う発言であったと同時に、政治家が国民感情を喚起するためにシンボルを利用する危うさを示した出来事でもありました

 問題はさらにその後に起こりました。テレビ局が奈良の現地で取材を行い、飲食店主やガイドから「外国人が鹿を蹴るのは見たことがない」との証言を得て放送すると、今度はその証言者たちが「やらせ」「クライシスアクター」と決めつけられ、SNS上で顔写真や勤務先が瞬く間におびただしい回数にわたって晒されました。ネットは「炎上」し、当人の関係先等には誹謗中傷が殺到し、店舗や本人が深刻な二次被害を受けていると報じられています。

 「鹿を守る」という美名のもとで、人間が攻撃され、生活や尊厳を踏みにじられる──この呆れた矛盾をどう考えたらよいのでしょうか。

道徳的パニックとシンボルの政治利用

 社会心理学者スタンレー・コーエン(1972)は、社会が「脅威」と認知した対象に過剰反応する現象を「道徳的パニック」と名付けました。今回のケースでは、奈良の鹿という文化的象徴が「外国人に蹴られた」という言説と結びつき、特に保守的な人々、外国人に対して嫌悪感を抱く人々の間に「守るべきものが脅かされている」という感情に火をつけ、瞬時に広がりました。

 奈良の鹿は観光資源であると同時に「神の使い」として神聖視されてきた歴史があります。これを傷つける行為は、文化的規範を壊す重大な逸脱と感じられやすいのです。もちろん、文化的な観点からも、動物愛護の観点からも、鹿を蹴ったり、暴力を振るったりする行為は到底許容できるものではありません。

 しかし、高市氏の発言は、そうした国民感情を呼び覚ます危険なレトリックであったと言えます。一方で、明確な根拠を欠いた発言が「脅威」を実体化させ、社会を不安定にした点に危うさがあります。

 高市氏は、根拠については、「人から聞いた」「自分で見た」と発言がコロコロと変わり、明確な根拠を示していません。また、確かに外国人によるそのような許しがたい行為はあるとしても、日本人が鹿に暴力を振るって逮捕された事案もあり、「鹿への粗暴行為=外国人憎悪」につなげるのは、きわめて短絡的で危険な思想です。

SNS拡散の構造

 SNSでは、怒りや憤りといった道徳的感情を含む言葉ほど拡散されやすいことが知られています (Brady et al., 2017)。冷静な「見たことはない」という証言よりも、「鹿を蹴った」という衝撃的な断言が人々の注意を引き、信用されます。

 また、Vosoughiら (2018) の研究が示すように、虚偽情報は真実よりも速く、深く広がる傾向があります。「外国人が鹿を蹴った」という断定や「クライシスアクター」という陰謀論的解釈はその典型です。感情的で単純な言説は、る複雑で検証可能な事実よりも魅力的に響いてしまうのです。

 さらに、インフルエンサーであり奈良市議でもあるへずまりゅう氏が、この話題をことさらに取り上げて、奈良公園でインタビューに応じた人々の写真を示しながら、個人を特定しようとする動画をたびたび上げるなど、炎上に油を注いでいます。

「鹿は守るが、人を潰す」心理

 心理学的に注目すべきは、鹿と人間が「道徳的な二分法」で扱われたことです。Gray & Wegner(2009)は、人は他者を「守られるべき被害者」と「責められる加害者」に分けて認知する傾向があると指摘しました。鹿は「無垢な被害者」として同情を集める一方で、「そんなことは見たことがない」と語った証言者は「隠蔽する側=敵」とみなされ、攻撃対象にされてしまったと考えられます。感情で動きやすい人は、単純な二分法的思考で動きやすいという特徴もあります。

 さらに、鹿を蹴ったのが「外国人観光客」という言説は、外集団への敵意を増幅させました。人間は外部者に警戒心を持ちやすく、特に文化的象徴が外集団に傷つけられたと感じると、怒りや嫌悪感が倍加します (Schaller et al., 2011)。

 「クライシスアクター」説は、曖昧さを嫌う心理の表れでもあります。Lewandowskyら (2012) は、人々が不確実な状況に直面すると、複雑な事実よりも単純でわかりやすい陰謀論を信じやすいことを示しました。あいまいで誰が発言したかわからない状況よりも、「テレビ局が仕込んだクライシスアクターがテレビ局のシナリオに沿った発言をしている」というストーリーのほうが、単純かつ明確であり、自分が信じたいストーリーを信じ込むうえで都合がよいのです。

デジタル自警主義と二次被害

 証言者の顔写真や個人情報が晒された現象は「デジタル自警主義」(Trottier, 2017)の典型です。人々は「正義を守る」つもりで行動していても、結果的には無関係な市民を犠牲にし、精神的外傷や社会的孤立を生み出します。鹿という象徴を守る行為が、人間の尊厳を踏みにじる倒錯へと変質したのです。

 今回の現象は、日本におけるネット右翼的心理ともつながっています。ネトウヨ的言説はしばしば「日本文化を守れ」という名目で展開されますが、その矛先は具体的な政策課題ではなく、外国人や異質な意見を持つ人々に向けられます。今回も「鹿を大切に」という一見無害なスローガンが、実際には「外国人観光客=脅威」というレッテル貼りと結びつきました。

 ヘイトスピーチ研究が示すように、排外主義的言説は「自分たちの生活が脅かされている」という相対的剥奪感に支えられます。今回の「鹿」発言もまた、文化的アイデンティティの侵害という感覚を利用して排外感情を強化したと言えるでしょう。SNS空間では、ネトウヨ的言説が「正義」や「日本の伝統」という大義名分の下で拡散しやすく、それに反論した市民が「裏切り者」として攻撃される構造が形成されています。

私たちに求められること

 この事件から私たちが学ぶべき教訓は三つあります。

  • 政治的レトリックへの警戒──政治家が象徴を利用して感情を煽るとき、その影響が市民の安全や尊厳に直結することを忘れない。
  • 事実確認を優先すること──感情的な言葉に流されず、根拠を冷静に確かめる態度を養う。
  • 包括的な倫理観──「鹿も人も守る」視点を持ち、動物を守るために人間を犠牲にするような倒錯を避ける。

 さらには、個人の画像や個人情報の拡散を煽った人々、誹謗中傷を行った人々などには、迅速で適正な法的措置を断固として行うことも必要でしょう。これらは卑劣なネット犯罪であり、「われわれは卑劣なネット犯罪を許さない」という姿勢を示すことが大切です。

 まとめると、「鹿を守るが、人を潰す」という矛盾は、道徳的パニック、外集団嫌悪、陰謀論心理、そしてSNS拡散構造が重なって生まれたものです。その背後には、日本社会に根強く存在する排外主義的心理と、ネット右翼的な「文化防衛」レトリックの影響も認められます。

 総裁選という国の未来を決める場で、シンボリックに「鹿」が持ち出されたことは、政治がいかに人々の感情を利用し得るかを示しました。私たちは冷静に事実を検証し、感情に支配されない民主主義的な議論の力を取り戻す必要があります。

参考文献

  • Brady, W. J., et al. (2017). PNAS, 114(28), 7313–7318.
  • Vosoughi, S., et al. (2018). Science, 359(6380), 1146–1151.
  • Lewandowsky, S., et al. (2012). Psychological Science in the Public Interest, 13(3), 106–131.
  • Schaller, M., et al. (2011). Philosophical Transactions of the Royal Society B, 366(1583), 3418–3426.
  • Trottier, D., et al. (2017). Social Media + Society, 3(1), 1–11.

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