謎の少女キム・ジュエへの焦りか…“平壌の死神”と呼ばれる金与正が“目を引くピンクのコート”で軍事境界線に立った理由とは:時事ドットコム

 朝鮮労働党の金正恩総書記の実妹、金与正党総務部長が10月21日、朴正天国防省顧問らと共に南北軍事境界線近くを視察した。与正氏は同日夜に発表した談話で「10月中に対韓国心理戦用の拡声器が国境線全域で稼働状態に入るであろう」と予告した。

 この視察を伝えた朝鮮中央通信の写真を見た日本政府当局者は少なからず驚いた。金正恩氏を伴わず、軍幹部と前線の軍事施設を視察する金与正氏の姿が公開されたためだ。金与正氏はピンクのコート姿で、鉄条網越しに韓国側を眺めたり、道路を視察したりした。

軍幹部と前線の軍事施設を視察する姿

 金与正氏は、少なくとも2011年12月の父・金正日総書記の葬儀で、初めてその姿が公になった。その後は米国やロシア、中国、韓国などとの首脳会談、様々な現地視察などの際、金正恩氏に付き従う姿が目撃されてきた。

 兄と別行動を取った例としては、2018年2月、平昌冬季五輪に合わせ、高官級代表団の一員として訪韓したことがある。この際は金正恩氏の特使として親書を伝えた。後は2019年6月に板門店を訪れ、韓国の金大中元大統領の妻・李姫鎬氏の死去を受け、金正恩氏名義の弔事と弔花を韓国側に伝達した程度だ。今回注目されるのは、外交儀礼ではなく、軍幹部と前線の軍事施設を視察する姿が公開されたことだ。

 金与正氏が金正恩氏を伴わずに前面に出ることには、慎重にならざるを得ない事情がある。「白頭(山)血統」と呼ばれる金日成主席の血を引く一族のなかで、金正恩氏と金与正氏は権力中枢で活動する存在だ。北朝鮮では、最高指導者の傍系に当たる親族が権力の中枢から遠ざけられてきた。

 金日成氏の弟・金英柱氏は長い間幽閉された。金正日氏の異母弟・金平一氏は長年、欧州諸国の大使を歴任し、2019年に帰国した後は消息不明の状態が続いている。金正恩氏の異母兄・金正男氏は2017年にマレーシアで暗殺された。北朝鮮を逃れた元労働党幹部は「金与正が男だったら、単独で行動させたりしないだろう」と語る。

 実際、2018年の訪韓時に高官級代表団の団長を務めたのは、当時の金永南最高人民会議常任委員会委員長だった。「歩く労働新聞」と呼ばれ、最高指導者への忠誠心が厚いと言われた人物だ。21日の視察に同行した朴正天氏は2022年末、党書記と党中央軍事委員会副委員長を解任された経験を持つ。

 北朝鮮消息筋によれば、新型コロナウイルスの感染拡大を巡るスキャンダルに巻き込まれ、後に潔白が証明されて復活したという。ただ、相当な心労があったようで、北朝鮮が公開した映像で、朴氏の頭部に一部、脱毛が確認されている。

外交で金与正氏が前面に出る意味

 金正恩氏と金与正氏の関係が緊密だとしても、周囲が権力闘争への懸念を抱かずに済むとは限らないのだろう。ましてや、2022年11月からはキム・ジュエと呼ばれる金正恩氏の娘も登場した。ジュエ氏と金与正氏は将来、権力を奪い合う関係に陥る可能性もあり、周辺は細心の注意を払っていることは想像に難くない。

 では、こうした事情があるなか、金与正氏が前面に出た背景には何があるのだろうか。韓国政府関係者は、金与正氏は韓国を激しく非難しているものの、韓国との戦争を望んでいるわけではないとの見方を示す。北朝鮮にとって最重要課題は体制維持であり、韓国との戦争は体制の危機を招くためだという。

 北朝鮮は2015年にも非武装地帯での地雷爆発事件を機に韓国と険悪な状況に陥った。当時の朴槿恵政権は一歩も引かない強硬姿勢を維持。同年8月25日に発表された南北の合意では、北朝鮮側が地雷爆発によって韓国軍人が負傷したことに遺憾の意を表明せざるを得なかった。

 前出の韓国政府関係者は「韓国側には、18年の訪韓時に金与正と会い、礼儀正しくて柔らかい性格の女性だという印象を持った人が多い」と語る。この関係者は、軍部でも最高指導者でもなく、金与正氏が前面に出ることが一種の安全装置になっているとみている。

 一方で、この動きには韓国の頭越しに米国を見据えた計算も透ける。北朝鮮は金与正氏の視察と談話を朝鮮中央通信で伝えたが、国内向けの労働新聞は報じていない。この動きには、韓国以外に向けたメッセージが込められている可能性もある。元労働党幹部は「北朝鮮の狙いは韓国ではなく、米国かもしれない」と語る。

 北朝鮮は17年、ミサイル発射を繰り返し、米朝関係を緊張させた後、対話に転じた経緯がある。ただ、北朝鮮は金正恩氏とトランプ米大統領の関係は良好だとしている。

 米朝関係そのものを再び緊張させるよりも、南北関係で緊張を演出することで、「平和の使者」を自任するトランプ氏に北朝鮮との対話の必要性を意識させる狙いがあるのかもしれない。つまり、致命的な軍事衝突を避ける安全装置をかけながら、対米交渉の呼び水とするための絶妙な緊張演出というわけだ。

兄・金正恩氏は米中ロ首脳会談の開催に意欲

 妹が前線の鉄条網越しに韓国側を睨みつけ、世界の視線を軍事境界線に引きつけていたその裏で、兄はすでに次の布石を打っていた。

©AFP PHOTOKCNA VIA KNS

 金正恩氏は24日、中朝国境にある中国・丹東を訪問。中国共産党序列4位の王滬寧・中国人民政治協商会議全国委員会主席と会談した。トランプ氏は、11月に中国で行われるアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議に合わせて、米中ロ首脳会談の開催に意欲を示している。金正恩氏は、友好関係にある中国やロシアを通じ、米朝首脳会談開催に向けた「北朝鮮が望む条件」を飲むよう、トランプ氏に働きかける可能性がある。

 第1次トランプ政権当時の2019年2月、ハノイで開かれた米朝首脳会談は合意に至らずに終わった。元労働党幹部は「(首脳会談の決裂で)金正恩の最高指導者としての体面は深く傷ついた。同じ失敗は繰り返せない。金正恩は、首脳会談開催のためには、トランプが制裁緩和に応じると確約して欲しいと考えているはずだ」と指摘する。

 絶対に失敗を繰り返せないトランプ氏との首脳会談を実現させるため、金正恩氏と金与正氏の兄妹は、息の合った工作活動を今後も続けることになりそうだ。

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