「日本発の治療ワクチン」が“HIV終結”へ導く 生涯服薬からの解放への希望とは

世界で4000万人以上が感染し、年間約60万人が命を落とす「HIV/AIDS」。特にサハラ以南アフリカは全世界の感染者の約70%が集中し、深刻な社会問題となっています。しかし昨今、日本の研究チームが開発する「治療ワクチン」が、この状況を一変させる可能性を秘めています。

外務省主催TICAD9のテーマ別イベント、国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所のシンポジウム「エイズの脅威からアフリカを救う〜エイズが治る未来を目指して〜」(2025年8月21日)で、日本とアフリカの研究者が語った、HIV/AIDS終結への道筋とは。生涯服薬から解放される「機能的治癒」は実現するのか。そして今、HIV終結に向けた日本とアフリカの連携が求められています。

登壇者: 保富 康宏(国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所霊長類医科学研究センター センター長)

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酪農学園大学獣医学部卒業、同大学院獣医畜産学研究科獣医微生物学専攻修了。ハーバード大学医学部研究員、同助手を経て、三重大学医学部助教授に就任。2007年より独立行政法人医薬基盤研究所(現・国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所医薬基盤研究所)霊長類医科学研究センター長および三重大学大学院医学系研究科教授を兼任。2025年8月より北海道大学ワクチン研究開発拠点特任教授を併任。30年以上にわたりHIVワクチン開発研究に従事し、特に霊長類を用いた治療ワクチンの開発において先駆的な成果を上げる。「治療から治癒へ」という理念のもと、生涯服薬からの解放を目指した革新的アプローチを展開。アフリカを含む国際的な共同研究にも積極的に取り組み、「エイズの脅威からアフリカを救う」ことを目標に、日本の技術を世界の課題解決に活かすことを使命としている。

登壇者: スカーレット・コーネリッセン(南アフリカ・ステレンボッシュ大学教授)

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アフリカの国際政治経済、特にアジアとの外交・経済関係に関する専門家。ケープタウン大学卒業、ステレンボッシュ大学修士号(国際学、1997年・応用倫理学、2015年)、グラスゴー大学で博士号(都市研究、2002年)を取得。ハーバード大学ラドクリフ高等研究所キャサリン・ハンプソン・ベッセル研究員(2016年)、ライプツィヒ大学ライプニッツ教授(2015年)を歴任。また、京都大学、東京外国語大学、立命館大学、関西大学および日本経済研究所でも客員教授を務めた。現在は、ステレンボッシュ大学政治学部教授であり、同大学日本センター所長を務める。

登壇者: 古賀 道子(東京大学新世代感染症センター 感染症研究分野教授)

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東京医科歯科大学(現・東京科学大学)医学部医学科卒業、東京大学大学院医学系研究科修了。日本におけるHIV/AIDS診療の専門家として、臨床現場からの視点でHIV感染症の現状と課題について研究・診療に従事。年間約1000人の新規HIV感染者が報告される日本において、約30%を占める「いきなりエイズ」(エイズ発症後に初めて感染が判明)という診断の遅れを問題提起している。特に日本の薬害エイズ被害者の差別・偏見の歴史を重んじ、現在のHIV陽性者の高齢化に伴う合併症管理、U=U(Undetectable=Untransmittable:検出限界未満なら感染しない)概念の普及、PrEP(曝露前予防内服)の必要性を説く。「HIVは日常生活では感染しない」という正しい知識の普及と、差別・偏見の解消を通じて、HIV陽性者が社会で普通に生活できるよう診療面からサポートしている。

登壇者: 宮田 満(株式会社宮田総研 代表取締役社長)

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医薬品・バイオテクノロジー分野の科学ジャーナリスト、コンサルタント。外務省主催TICAD9のサイドイベント、国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所のシンポジウム「エイズの脅威からアフリカを救う〜エイズが治る未来を目指して〜」(2025年8月21日)で司会を務める。シンポジウムの総括において、「HIV/AIDSの急速な政策変化により資金がゼロになる可能性がある中、日本のイノベーションがますます重要になっている」と指摘。さらに「日本が開発するHIVワクチンなどの革新的技術を通じて、国際協力を実現することの重要性」を強調。長年にわたりHIV/AIDS問題を含む医療・バイオテクノロジー分野を取材し、科学と社会をつなぐ役割を担っている。

アフリカのHIV/AIDS問題は、単なる医療の課題ではありません。社会、経済、文化、全てが絡み合った複雑な問題なのです」 南アフリカから来日したコーネリッセン教授は、シンポジウムでこう切り出しました。

サハラ以南アフリカには、世界のHIV感染者の約70%が集中しています。 「アフリカは世界人口の16%しか占めていないのに、HIV感染者の大部分を抱えている」

特に深刻なのは、若い世代への感染拡大です。 「新規感染者の多くは若者、特に若い女性です。ジェンダーの不平等、経済的困窮、教育の欠如が感染リスクを高めています」

ウガンダの成功と南アフリカの遅れ- 政治リーダーシップの明暗

アフリカのHIV対策には、成功例と失敗例が混在しています。 「ウガンダのムセベニ大統領は、1980年代後半から国を挙げてHIV対策に取り組みました。『ABCアプローチ(Abstinence禁欲、Be faithful貞節、Condom useコンドームの使用)』により、感染率を大幅に減少させることに成功しました」とコーネリッセン教授は説明します。

一方で、南アフリカのタボ・ムベキ元大統領(1999~2008年)は、当初HIVとエイズの因果関係を否定し、抗レトロウイルス薬の導入を遅らせました。 「この政策の遅れにより、多くの命が失われたと考えられています。科学的根拠に基づく政策決定の重要性を示しています」

日本が開発する「治療ワクチン」- サルで実証された希望

「私たちの目標は、『治療から治癒へ』の転換です」 保富氏は力強く語ります。

現在の抗レトロウイルス薬は優れた効果を持ちますが、生涯服薬が必要です。 「アフリカの多くの国では、薬の供給が不安定です。また、生涯にわたる医療費負担は、個人にとっても社会にとっても重大な問題です」

保富氏らが開発している治療ワクチンは、この問題を根本から解決する可能性を秘めています。 「私たちは、エイズウイルスの特定の遺伝子を削除した弱毒化ウイルスをベースに、免疫を活性化する成分を加えたワクチンを開発しました。このワクチンは、すでに感染している人の体内でウイルスを抑制することを目指しています

驚異的な実験結果 – 薬なしでウイルスを抑制

サルを用いた治療ワクチンの実験の結果は、研究者たちの予想を超えるものでした。保富氏は結果について、下記のように発言しています。 「7頭のサルに治療ワクチンを接種し、その後、抗ウイルス薬を中断しました。通常なら、薬をやめれば必ずウイルスが再増殖します。しかし、ワクチンを接種したサルでは、一時的にウイルス量が上昇した後、自然に抑制されました

さらに驚くべきことに、4頭では完全にウイルスが排除され、さらに2頭のサルでは、ウイルスが検出されない状態になりました。この2頭は「機能的治癒」と呼べる状態です。

この成果は、薬に頼らずにHIVをコントロールできる可能性を示しています。 「もし人間でも同じ効果が得られれば、患者さんは薬から解放されます。これは革命的な変化をもたらすでしょう」

なぜアフリカとの連携が不可欠なのか

保富氏は、ワクチン開発にはアフリカとの協力が不可欠だと強調します。 「HIVは常に変異を続けています。アフリカで流行しているウイルス株の最新情報がなければ、効果的なワクチンは作れません。また、臨床試験をおこなうには、現地の医療機関や研究者、そして何より地域社会の協力が必要です

コーネリッセン教授も同意します。 「ワクチン開発は、先進国が一方的におこなうものではありません。アフリカの研究者も参画し、現地のニーズに合った開発を進めることが重要です。これは科学的にも倫理的にも正しいアプローチです」

文化と宗教の壁 – 行動変容の難しさ

医学的な解決策だけでは、HIV/AIDS問題は解決しません。コーネリッセン教授は、社会文化的な要因の重要性を指摘します。 「多くのアフリカ社会では、性について語ることがタブー視されています。宗教的信念が、コンドーム使用や性教育の普及を妨げることもあります

また、ジェンダーの不平等も大きな課題です。 「女性は性的な交渉において弱い立場に置かれがちです。経済的に男性に依存せざるを得ない状況では、安全な性行為を求めることも困難です」

資金援助の危機 – 国際協力の転換点

アフリカのHIV対策は、国際的な資金援助に大きく依存しています。しかし、その持続可能性に疑問が投げかけられています。 「アメリカのPEPFAR(大統領エイズ救済緊急計画)やグローバルファンドなどの支援により、多くの命が救われました。しかし、援助疲れやほかの健康危機への関心のシフトにより、資金が減少する可能性があります」とコーネリッセン教授は警告します。

保富氏も懸念を示します。 「だからこそ、治療ワクチンのような根本的な解決策が必要なのです。一度の接種で長期間効果が持続すれば、継続的な薬の供給に頼る必要がなくなります」

2030年エイズ終結目標 – 達成への課題

UNAIDSは2030年までにエイズの流行を終結させる目標を掲げています。しかし、現状では達成が困難な状況で、古賀教授は以下のように説明しています。 「95-95-95ターゲット(感染者の95%が診断を受け、その95%が治療を受け、その95%でウイルスが抑制される)の達成状況は、2024年時点で87%-89%-93%です。地域によってはさらに低い数値です

特に課題となっているのは、最初の「95」である診断へのアクセスです。 「検査を受けることへの恐怖、施設への距離、プライバシーへの懸念など、多くの障壁があります」

日本の貢献と責任 – 科学と連帯の力

宮田満氏は、シンポジウムの総括で日本の役割について言及しました。 「日本は優れた基礎研究力と技術力を持っています。しかし、その成果を世界、特に最も必要としているアフリカの人々に届けることができているでしょうか」

それに対して保富氏は、「私たちの研究は、日本だけのものではありません。世界のHIV感染者、特にアフリカの人々のためのものです。一日も早く臨床試験を開始し、実用化を目指します」と決意を語りました。

また、コーネリッセン教授は、希望を持って未来を語ります。 「HIV/AIDSとの闘いは、人類の連帯が試される挑戦です。科学の進歩、政策の改善、社会の変化、そして国際協力。これら全てが組み合わさったとき、私たちは勝利できるでしょう」

治療ワクチンの開発は、単なる技術的挑戦ではありません。「誰一人取り残さない」という理念を実現する挑戦なのです。

編集部まとめ

HIV/AIDSは、もはや一国だけで解決できる問題ではありません。日本が開発する治療ワクチンは、生涯服薬からの解放という革命的な可能性を秘めています。サルでの実験成功は、その実現が決して夢物語ではないことを示しています。 しかし、技術だけでは不十分です。アフリカの現実を理解し、現地の研究者や地域社会と協力し、文化的・社会的な課題にも取り組む必要があります。

2030年のエイズ終結目標まで、残された時間はわずかです。日本の技術力とアフリカの経験知を組み合わせることで、この人類共通の課題を克服できるかもしれません。

「エイズの脅威からアフリカを救う」という保富氏の言葉は、単なるスローガンではありません。それは、科学の力と国際連帯によって実現可能な、具体的な目標なのです。

私たち一人ひとりにできることは、この問題に関心を持ち続けること。そして、偏見や差別をなくし、全ての人が尊厳を持って生きられる社会を作ることではないでしょうか。

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