コラム:日銀によるETFの市場売却、100年超の長期戦略の意義=井上哲也氏
[東京 24日] - 日銀は9月の金融政策決定会合で、保有している上場投資信託(ETF)と不動産投資信託(REIT)の双方を、所要の準備が整い次第、市場売却することを全会一致で決定した。具体的には、それぞれ簿価でETFは毎年3300億円程度、REITは毎年50億円程度を、各銘柄の保有割合におおむね比例的に売却するというものである。
決定に至った背景として日銀の植田和男総裁は、金融危機の際に金融機関から買い入れた銀行保有株式の売却が市場に大きな影響を与えることなく今年7月に終了したことで有益な知見が蓄積され、それを踏まえた実務的な検討にめどがついたと説明した。
本稿では今回の決定のうち、ETFの市場売却に焦点を当てて意義を検討したい。
<市場への影響の抑制>
ETFの市場売却の焦点は、市場に対する影響を極力抑制することにある。日銀が掲げた基本方針の柱の一つであり、そうした問題を起こさず完了した銀行保有株式の売却が今回の制度設計のベースになっている点からも明らかだ。
この点に関する具体的な工夫は、極めて緩やかなペースでの売却である。日銀の説明によれば、簿価で毎年3300億円の売却は2025年3月末時点の時価で6200億円程度に相当する。日銀は、銀行保有株式のケースと同じく、市場全体の売買代金のわずか0.05%に相当する点も強調している。
しかも日銀は8月末時点で約37兆円(簿価)のETFを保有しているので、ペースが不変とすれば、植田氏が認めたように市場売却の完了に100年以上を要する。市場がこの点を理解すれば、ETFの市場売却が市場の変動要因と考えることはなくなる。つまり、極めて緩やかなペースでの市場売却は、現在だけでなく将来にわたっても市場に対する影響を抑制する効果を持つ。
一方で、日銀が市場売却のペースにおいて市場全体の売買代金に対するシェアを強調したことは、将来に向けた柔軟性の余地が存在することも示唆する。日本が再び「失われた20年」に陥らなければ、株価は長い目で見て上昇していくことが想定される。これに伴って売買代金も増加すれば、0.05%というシェアを維持する下でも、売却ペースを引き上げることは可能である。
日銀が、金融政策決定会合で売却ペースを見直すことがあり得ると規定したことは、こうした可能性を考慮した決定であったとみられる。
<損失発生の回避と「含み益」の実現>
ETFの市場売却に関するもう一つの焦点は、日銀が掲げた基本方針の柱として明記された損失発生の極力回避である。
こうした方針の直接的な意味合いは、市場環境が悪く含み損が生じている状況でも機械的に売却を続けることはない点だ。実際、日銀は上記の規定とは別に、市場の状況に応じて売却の一時的な調整や停止を行うと規定し、柔軟な対応を示唆している。
しかし筆者がより注目するのは、基本方針の残りの柱である適正な対価による売却である。市場の実勢を勘案する点が付言されているので、その直接的な意味合いは時価での売却を意味する。その結果、日銀には市場売却に伴うキャピタルゲインがもたらされる。
既に見たように、日銀によれば簿価で3300億円の売却は、本年3月末時点の株価(6200億円)で見て2900億円の売却益をもたらす。市場売却の開始時期と株価との関係いかんという面はあるが、その後の株価上昇を考えると3000億円を超える可能性が高い。
しかも、日銀の前年度決算によれば、本年3月末時点の「含み益」は約33兆円にも達していた。その後の株価上昇に加えて、長い目で見た株価上昇が維持されれば、毎年実現し得る売却益も相応に増加していくことになる。
<利益確保の意味>
日銀にとって利益を増やすことは、特にこの局面で重要な意味を持つ。なぜなら、これから金融政策の正常化を進める上では巨額の費用が生じるからだ。
金融市場では、そうした費用として保有国債の価格下落をイメージする場合も多いが、日銀は償却原価法で評価しているので、満期まで保有する限り実現損は生じない。主たる問題は、政策金利の引き上げに伴って当座預金への付利コストが増加することであり、そのコストは極めて大きい。
例えば、本年度中は利上げを見送り、来年の4月と10月に0.25%ずつ利上げを行うという慎重な見通しの下でも、来年度平均の政策金利は0.875%になる。一方で、「量的引き締め」によって当座預金は緩やかに減少する。
しかし、日銀が以前に公表した国債買い入れの運営方針に付記した来年3月末と再来年3月末の保有国債の残高見通しの違い(約53兆円に相当)が全て当座預金の減少に反映しても、来年度の当座預金は、期初には約517兆円、期末には約464兆円と推計され、平均残高は約491兆円となる。従って、0.875%に491兆円を乗じた約4兆3000億円が当座預金の付利コストになる。
もちろん、ETFの保有残高は大きく変わらず、従って配当収入(昨年度実績約1兆4000億円)は維持され、保有国債の利子収入(同約2兆1000億円)も、部分的だが高い利回りの銘柄に置き換われることで増加が期待できる。時価評価の必要な外国為替についても相場の安定を期待し、債券取引損失引当金のような裁量性の高い費目の運営を工夫すれば、何とか赤字を回避し得るかもしれない。
それでも、この数年にわたって2兆円を上回って推移してきた国庫納付金がゼロ、ないし不可能となる可能性は高い。こうした可能性は、巨額の国債保有と金融政策の正常化の組み合わせの帰結として以前から広く理解されてきたし、先に見たETFの売却ペースによる影響は小さい。しかも、日銀は損失の発生が金融政策の運営に支障となることはないと主張してきたし、筆者も同じ考えである。
それでも日銀が実際に損失を生じ、国庫納付金が実質的に停止する事態が生じた場合、政治や世論がどのような反応を示すかには不確実な点が残る。この点で、日銀がETFの市場売却を通じて、少額であるが利益を増やす姿勢を示しておくことの意味は小さくない。また、日銀が外部の圧力に先手を打つ形で、自発的にETFの市場売却を開始することも重要だ。なぜなら、そうした環境で議論が行われると、急速で大規模な市場売却のような案も取り上げられ、市場の不安定化に繋がりかねないからだ。
<金融政策の独立性>
現在の日銀にとって、巨額のETFがバランスシートに存在する以上、今回決定した市場売却にはこのように様々な点で合理性がある。それでも、この政策手段を今後に向けてどう位置付けるかという問題は残る。
ETFの買い入れはリスクプレミアムが極端に高まった局面で有効であったとしても、記者会見で指摘されたように、正常化に100年以上を有するとすれば、コストは見合うのかという疑問はもっともである。日銀がETFを保有し続けることの副作用については議決権行使等の面で対応してきたが、市場は日銀による保有比率の高い銘柄を明確に認識している。
日銀がETFの買い入れについて、日銀法第43条に基づく財務相と内閣総理大臣の認可を受けたことの意味も改めて考える必要がある。つまり、ETFの買い入れは、少なくとも法律上の日銀の本来の業務ではなく、他業禁止の特例として位置づけられている。その意味で、植田氏が記者会見で述べた、買い入れの再開は想定していないというコメントの意味は小さくない。
編集:宗えりか
*本コラムは、ロイター外国為替フォーラムに掲載されたものです。筆者の個人的見解に基づいて書かれています。
*井上哲也氏は、野村総合研究所の金融イノベーション部シニアチーフリサーチャー。1985年東京大学経済学部卒業後、日本銀行に入行。米イエール大学大学院留学(経済学修士)、福井俊彦副総裁(当時)秘書、植田和男審議委員(当時)スタッフなどを経て、2004年に金融市場局外国為替平衡操作担当総括、2006年に金融市場局参事役(国際金融為替市場)に就任。2008年に日銀を退職し、野村総合研究所に入社。金融イノベーション研究部・主席研究員を務め、2021年8月から現職。主な著書に「異次元緩和―黒田日銀の戦略を読み解く」(日本経済新聞出版社、2013年)など。
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