習近平は彼女と出会って「たった40分」で恋に落ちた…中国政府がひた隠す「ファーストレディ」の暗い過去 毎晩妻に電話をかけ続けたという習近平の新婚生活
※本稿は、マイケル・シェリダン(著)、田口 未和(訳)『紅い皇帝 習近平』(草思社)の一部を再編集したものです。
写真提供=新華社/共同通信イメージズ
2024年11月8日、中国の習近平国家主席と彭麗媛夫人は、首都北京でイタリアのセルジョ・マッタレッラ大統領と娘のラウラ・マッタレッラさんと集合写真を撮影
伝説の歌姫に一目惚れした習近平
習近平の人生に現れた新しい女性は有名人だった。中国ではほぼ誰もが知っている彭麗媛ほうれいえんだった。
20代前半から歌手として毎年、新春を祝う全国放送のテレビ番組に出演していた。中国の新年は、家族が集まって夕食をともにし、テレビで娯楽番組を見るのが伝統だった。
離婚した孤独な地方官吏の習近平に、彭麗媛は魅惑と情熱を与えた。彼女は正統派の歌姫で、そのソプラノの歌声は観衆の心をつかんだ。人々は彼女が歌う素朴な民族歌謡、たとえば「希望の野原に立って(在希望的田野上)」や「我ら黄河と泰山(我們是黄河泰山)」などの曲を好んだ。これらの曲と巧みに組み合わせて歌われる愛国的なバラードは、歌詞のなかで人々を「山と海」として称賛した。
民衆を「共産党の水源」と表現する曲もあった。彭麗媛は人々の目をとらえて離さなかった。軍楽隊が伴奏し、バックダンサーが所定のダンスをこなすなか、赤いシルクのロングドレスを着た彼女が舞台を踊りながら移動する。テレビカメラは、ふっくらした手で赤い旗を振りながら笑っている子供たちを映し出した。
彼女の夜の衣装は時にはオリーブグリーンの軍服を褒章で飾ったものに変わった。というのも、彭麗媛は人民解放軍文化部の少将でもあったからだ。
妻への告白のセリフ
どの記事を読んでも――もちろん、どれも中途半端で詳細に欠けていたが――習近平は彼女に一目惚れしたと書いてある。
習近平が彼女に、「出会って最初の40分で、あなたが将来の妻になる人だとわかった」と告白したとする記事もある。彼らの最初のデートは1986年に友人がお膳立てをした。詳細は不明だが、効果があったのは間違いない。
場所は厦門だった可能性が高い。習が副市長を務めていた活気ある港町だ。習は33歳で、彭は24歳だった。興奮が伝わる記事のひとつによれば、彭麗媛は最初のデートにわざと控えめな軍服を着ていった。
彭本人が国営新聞に、最初は習近平のことを、年より老けていてつまらない相手に思えたと語っている。習は軽いおしゃべりが苦手でもあったが、それでも、2人は相性がよかったようだ。
習近平は彭麗媛に歌うときのテクニックについてたずね、彼女のプロとしての仕事に興味を示した。そして、彼女は「たちまち」恋に落ちた。このロマンスについての定番のプロパガンダは、習が彭に敬意をもって接したということだ。一度のデートが次のデートにつながった。
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香港の『サウス・チャイナ・モーニング・ポスト(南華早報)』紙の進取的な記者たちが2015年に村で情報集めをしようとすると、地元の役人に立ち去るように言われた。政府が村人に、そうした「デリケートな」事柄については話さないように指示を与えたらしい。
やがて文化大革命の嵐は徐々に衰え、彭の父親は以前の仕事に戻った。麗媛は最も近い地方都市の運城うんじょうの学校に送られた。教員たちが彼女の音楽と歌の才能に気づいたのは、14歳のときだ。彼女は山東省芸術学校への入学が認められ、そこで才能が開花した。
家族へのひどい仕打ちも、彭の大義への忠誠をひるませなかった。彼女は18歳で人民解放軍に入った。軍への入隊は社会的、経済的な出世の早道だ。人民解放軍は彭の両親のような文化大革命の多くの犠牲者から尊敬されてもいた。
なぜなら、紅衛兵を倒して秩序を回復した部隊だったからだ。初期の時代から、軍は愛国心をかき立て士気を高めるために、音楽と娯楽を非常に重視していた。中華人民共和国では政治と芸術が腕を組んで進んでいた。
彭は好機をつかんだ。彼女は「文芸兵」に任命され、観衆の前でのパフォーマンスに生まれながらの才能があるとわかった。彼女のフレッシュさと歌声のなかの何かが兵舎や町の広場で観衆の心を打った。
1979年には、ベトナムとの悲惨な国境紛争の前線へ行く慰問団の一員に加わった。軍の広報担当はすぐに、逸材を手にしたと気づいた。
結婚にためらいがあったのは妻の両親
彭は20代前半にはすでに、中国中央電視台で催される毎年恒例の「春節の夕べ」のスター歌手としての地位を築いていた。このイベントは全国的に知られ、世界中で最も多くの人が見るテレビ番組になった。
彼女はすぐさま大成功し、毎年出演するようになる。パフォーマンスには特徴的な見かけやスタイルなどはなく、うまく変化を持たせていた。彭は時にはゆったりしたロングドレスを引きずりながら舞台上を横切った。
あるいは、龍や花の美しい刺繡が施された、体にぴったりした伝統的なシルクのチャイナドレス(旗袍)で観衆の目を引いた。仕立てのよい軍服を着て気取って歌う曲は、多くのファンを魅了した。
このように、彭麗媛が1986年に厦門の副市長とのデートに同意したときには、彼女はすでに伝説の歌姫になっていた。二人はすぐにお互いに夢中になり、1987年9月1日に厦門で結婚した。
簡単な式のあと、自宅での夕食会が続いた。習近平の両親は、息子が優雅で有名人の妻を得たのを見て満足していた。奇妙なことに、ためらいがあったのは彭の両親のほうだ。彼らは遠く離れた北京に住む革命の名門貴族に、素朴な不信感を抱いていた。