「どうして皆死んだか」 斬り込み、生き埋め...つづった友の最期
第二次世界大戦末期、沖縄は日米両軍の地上戦の場となった。沖縄県立水産学校(現・県立沖縄水産高校)の1、2年生21人は「通信隊」として戦場に動員され、うち20人が命を落とした。
「どうして私一人を残して死んだのか」。生き残った元学徒は戦後、悲痛な思いとともに学友たちの最期を書き残した。しかし、その元学徒も12年前に他界し、少年たちの悲劇が語られることは今はほとんどない。
Advertisement・この連載は3回続きです。 ・第1回 「どうして皆死んだか」斬り込み、生き埋め...つづった友の最期
・第3回 眠り続ける証言テープ 読谷村の引き出しに 記者の大叔父の体験談も(22日午前7時公開予定)
水産学校は那覇港のすぐそばにあり、主に14~17歳の学生が漁業や操船の技術などを学んだ。乗船実習が授業の要だったが、沖縄に戦火が迫ると、実習船は日本軍のものとなり、学生は軍の陣地構築や飛行場建設に駆り出された。
同校出身の安次富(あしとみ)長健さん(97)=那覇市=は「航海士になりたかったが、学校では戦の話ばかりだった」と振り返る。
1945年4月1日に米軍が沖縄本島に上陸し、激しい地上戦となった。
日本軍は兵力不足を補うため、県内に21あった旧制中等学校や師範学校などから男女約2000人の学生を動員し、物資の運搬や負傷兵の看護などにあたらせた。
水産学校では上級生が「鉄血勤皇隊」、下級生が「通信隊」として編成され、通信隊21人は日本軍第32軍の司令部があった首里城地下の壕(ごう)に配属された。司令部が45年5月下旬に本島南部の摩文仁(まぶに)(現・同県糸満市)へ撤退すると、通信隊も同行した。
16歳だった瀬底正賢(せそこせいけん)さんも通信隊の一員だった。生き残り、学友たちが次々と死んでいった経過を戦後、手記に残していた。
摩文仁では学徒たちも戦闘に駆り出され、手投げ弾を手に「斬り込み」に出るなどして命を落とした。命令を受け、軍の参謀を沖縄から脱出させるために小舟で海に出てそのまま行方知れずになった学徒もいた。
瀬底さんも摩文仁の司令部壕にいた時に、米軍から爆雷を投げ入れられ、生き埋めになった。かろうじてはい出すと、周りは学徒と兵士の「死の山」だった。壕の奥にいた第32軍の牛島満司令官に、壕入り口の守備隊が全滅したことを報告した。
牛島司令官らの自決で45年6月下旬に日本軍の組織的戦闘は終わった。
瀬底さんが日本兵らとともに米軍に投降したのは10月。通信隊の生き残りはもう一人いたが、その月に収容所で亡くなったという。
「どうして皆死んでいったか」「当時のことも語りたい」。瀬底さんは手記で、学友たちに訴えかけるようにつづる。
終戦の2年後、学友の遺骨を掘り起こして遺族に届けたときのことを「母親はただ泣き叫び、(私は)十分な話もできず、その場を去った。初めて、生きてきたことが心を痛めた」と書き残している。
戦後、瀬底さんは同県与那原町で暮らし、船の機関士や給油所の所長などをしながら、子ども3人を育てた。
長女の岡本悠子さん(67)=同県名護市=によると、瀬底さんの体には戦争の傷痕があちこちにあったが、体験を話したことはほとんどなかった。
一方で、岡本さんは親族らからこんな話を聞いた。父が学友たちの遺骨捜しを続けていたこと、「友人が呼んでいる」と言って海の方にふらふらと歩いていくのを見たこと。
岡本さんは「生き残った罪悪感を一人で抱え込んで苦しんでいたのだろう」と思う。
ひめゆり平和祈念資料館(糸満市)の普天間朝佳(ちょうけい)館長(65)は瀬底さんの姿を覚えている。その印象は少し異なる。
同館は99年、特別展「沖縄戦の全学徒たち」を催した。期間中、各校の元学徒が持ち回りで体験を話した。「瀬底さんも会場に来て、非常に力強く体験を語ってくれたのが印象的だった」
沖縄戦で動員されて亡くなった学徒は合計で1000人近くに上る。100人以上の犠牲者が出た学校もあり、水産学校の動員学徒に光が当たる機会は少ない。99年の展示を企画した普天間さんはこう振り返る。「水産学校など数校は資料が少なく、全ての実像は浮き彫りにできなかった」。
瀬底さんは2013年、84歳でこの世を去った。
「戦争の恐ろしさ、平和の尊さを伝えることが戦争で生き残った者の義務」「記録を残すことが戦死した20名の学友の供養になる」。95年に発行された沖縄水産高校の創立90周年記念誌に寄せた体験談で瀬底さんはつづっている。
長女の岡本さんは言う。「少しでも水産学校のことが伝われば、父も喜ぶと思う」
【喜屋武真之介】