【大河ドラマ べらぼう】第26回「三人の女」回想 妻てい、母つよ、そして歌麿 それぞれに蔦重への強い思い 意知めぐる人間模様、いよいよ緊迫
大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第26回「三人の女」では、主人公の蔦屋重三郎(蔦重、横浜流星さん)と、蔦重の最も身近にいる3人の人物との微妙な人間模様の綾が描かれました。まずは妻、てい(橋本愛さん)です。前回に続き、終盤に泣かせるクライマックスが訪れました。(ドラマの場面写真はNHK提供)
ていの振る舞い、瀬川を想いださせた
「御暇を頂戴したう存じまする」と手紙で折り目正しく別れを告げたてい。この展開、かつて手紙を残して家を出た瀬川と、彼女を探し出すことができなかった蔦重のエピソードと重なり合い、ファンには感慨深いものがあったでしょう。
第14回「蔦重瀬川夫婦道中」から瀬川の手紙。瀬川とてい、それぞれの字体にもキャラクターの違いが浮かび上がります 街の雑踏へと消えていった瀬川。いま、どこに暮らしているでしょうか あてもなく瀬川の姿を追った蔦重でした蔦重、同じ失敗は繰り返しませんでした。今度はギリギリのところでお寺に入ろうとしていたていに追い付くことができました。婚姻前に、ていが出家を考えていることを聞いていたからです。
「石頭のつまらぬ女」てい、その矜持こその魅力
てい、理路整然と家を出る理由を告げます。「江戸一の利き者の妻は私では務まらぬと存じます。私は石頭のつまらぬ女です。母上様のような客あしらいもできず、歌さんのような才があるわけでもなく。今をときめく作者や絵師、狂歌師、さらには立派なお武家様まで集まる蔦屋の女将には、吉原一の花魁を張れるような、華やかで才長けた方が相応しいと存じます」。この言葉も否応なく瀬川の事を連想させました。巧みな脚本の運びです。
ていが、蔦重に惹かれ始めていたことは明らか。にもかかわらず敢えて出家の道を選ぼうとしたのは、誠実で誇り高い彼女の性格があるのでしょう。十分に自分の役割が果たせないまま、形だけにせよ妻として家にいるのを潔しとしない気高さが、ていの凛とした佇まいを創り上げているように見えました。
「同じ考え」と「同じ辛さ」とは
一方、経験を積んだ蔦重はもう女心が分からぬ唐変木ではありません。「会っちまったと思ったんでさ。俺と同じ考えで、同じ辛さを味わってきた人がいたって。この人なら、この先、山があって、谷があっても一緒に歩いてくれんじゃないか。いや、一緒に歩きてえって。おていさんは、俺が俺のためだけに目利きをした俺のたった一人の女房でさ」。ていが、「伴侶はこういう人であってほしい」と思う通りの考えを示してくれた蔦重。彼の真摯な思いに触れて目を潤ませ、手をしっかりと握りしめながらも、涙はこぼさないのがまた、ていらしさでした。
蔦重が言葉にした「同じ考え」とは、書籍を通じて多くの人々の心を豊かにしたい、というものでしょう。店を畳むにあたり、売り物だった本をお寺に寄付したていは「屑屋に出せば本は本ではなく、ただの紙屑。手習いの子らに渡れば、子らに文字や知恵を与え、その一生が豊かで喜びに満ちたものになります」と書籍への強い思いを口にしていました。
「お前さんは書を以て世を耕やし、この日の本をもっともっと豊かな国にするんだよ」。蔦重のモットーとなったこの源内のメッセージと、ていの願いはぴったり重なるものでした。
それでは「同じ辛さ」とは何でしょう。詰まらない男に引っ掛かり、何よりも愛した日本橋の店を手放さざるを得なくなるという、取返しのつかない人生の痛恨事を味わっていたてい。吉原から日本橋にまで登り詰めた蔦重も、親に捨てられ、裸一貫から始めた書籍の商売で多くの失敗を重ねて今があります。実際、店は借金だらけ。江戸市中の注目を集める華やかな生き様に見えますが、米一俵に右往左往する経営は決して順風満帆とは言えません。
第4回「『雛形若菜』の甘い罠」から。鱗形屋や西村屋の策略にかかり、がっくりと肩を落とす蔦重。成長した姿をみせた蔦重
挫折と失敗を経験している者同士だからこそ、互いに支え合うことができるはず。大人の確信を伴った二度目の、本当のプロポーズでした。瀬川との別れの時からさらに成長した姿を見せ、素晴らしいパートナーを得た蔦重。一層、力強く前進していくのでしょう。
この母あってこの子あり、修羅場くぐった者の強さか
2人目の「女」は蔦重の母、つよ(高岡早紀さん)です。
蔦重の菩提寺、東京・東浅草の正法寺にある蔦重や母つよ(津与)の墓碑などによれば、蔦重が7歳の時に両親は離縁し、蔦重は喜多川家に養子に預けられました。その後、蔦重は両親を通油町の耕書堂に引き取り、一緒に暮らしたとあります。
蔦重と母、津与(つよ)の墓碑(東京・東浅草の正法寺)激しく人口減少した北関東
ドラマでは、この間のつよの人生は「下野(現栃木県)で髪結として暮らしていたが、不作の影響で食いあぐねて江戸まで流れて来た」と説明されていました。何気ない設定ですが、つよは地元で地獄絵図を見てきたのかもしれません。下野、という場所が象徴的だからです。この時期の北関東は全国的にみても厳しい地域の荒廃に苦しんでいました。
「栃木県史 通史編5 近世二」(1984年刊)によれば、江戸時代の人口推移をみると、下野では享保6年(1721)から天保5年(1834)まで一貫して減り続け、享保6年を100とした場合、つよが下野を離れた時期に近い天明6年(1786)では77.6という激減ぶり。60年余りで4分の1近くの人口が失われた計算になります。「18世紀中葉を画して顕在化する農村人口の減少傾向は(中略)全国規模で確認される現象である。(中略)関東諸国の人口減少は激しく、なかでも常陸・下野の両国は一段と激しい衰亡をみせていた」と栃木県史は説明します。
もともと厳しい地域事情に、不作が追い打ちをかけたのでしょう地域の衰退の背景としては、もともと江戸に近く、労働力の流出圧力が強かったことに加え、間引きの横行や厳しい年貢の取り立てなどが、当時から指摘されていました。浅間山の噴火や折からの気候変動が重なり、農村の荒廃が一層、進んだのでしょう。つよは下野でどんな光景を見て来たのだろうか、とつい想像してしまいます。「不作で食いあぐねた」というちょっとしたエピソードにも、この頃の厳しい時代状況が浮き彫りになります。
「私が捨てたおかげで、こんなに成功したんでしょ」と蔦重に恩を着せるという図々しいにも程があるつよ。下野での厳しい暮らしをくぐり抜けてきたからか、その強心臓ぶりには、さすがの「江戸一の利き者」蔦重も押され気味です。一方、その卓越した営業センスはこの母あってのこの子、という親子の血の繋がりも否応なく感じさせました。なぜか義理母と息が合うていさんも交え、これからどんな親子のドラマが繰り広げられるのでしょうか。
歌麿「生まれ変わるなら女がいい」
3人目は「生まれ変わるなら女がいいからさ」とつぶやいた歌麿です。
人生の絶望の淵から2度にわたって救い出してくれた蔦重に、強い思いを抱いている歌麿。
第1回から。明和の大火。見殺しにした母のあとを追って逝こうとしていた唐丸(歌麿)を救う蔦重。 第18回から。匿名で絵を売り、身体も売るどん底の暮しから、歌麿を救い上げた蔦重しかし、ていがその妻の座につき、母親のつよも加わり、耕書堂が大勢の従業員を抱える大店となった今、蔦重との距離感も変わりました。疎外感に苦しむようになった歌麿は「もう店でやることもないし、外に家借りて出ていくよ」とまでこぼすほどに。一方、蔦重は「出ていくなんて絶対に許さない」。周囲からみれば痴話げんかにしか見えないやりとりで、ていも、つよも、蔦重は歌麿の「念者(男色関係における兄貴分)」と思い込むほどでした。
葛藤を経て、表現者としての道を進む歌麿
しかしそこは蔦重と歌麿。創作、というもうひとつの強い絆が2人の間にはあります。モチーフになったのが「歳旦狂歌集」でした。「歳旦」とは元日の意味で、年の初めを寿ぐ歌集という意味です。
天明4年(1784)の正月に出版されました。狂歌人気が絶頂を迎える中、挿絵の入った黄表紙の形態をとる狂歌集というユニークな体裁の出版物でした。計5部が出版され、絵は2部を北尾政美、1部を歌麿、『年始御礼帳』と『金平子供遊』の2部を「歌麿門人 千代女」が担当しました。
「門人千代女」は実際は歌麿が自ら絵を描いたとみられています。どうして名前を変えたのかは不明です。
四方赤良 [編] ほか『金平子供遊 2巻』,[蔦屋重三郎],[天明4 (1784)]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8929478三味線を弾くひと、おはじきをするひと、羽子板をもつひと。目出度い画題が続きます。題名のとおり、子どもたちが主役の楽しい狂歌集です。ドラマの制作陣はこの狂歌集に、米価格高騰などによる社会不安を軽減するために発行された、という制作意図を盛り込みました。 四方赤良 [編] ほか『金平子供遊 2巻』,[蔦屋重三郎],[天明4 (1784)]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8929478歌麿が「千代女」と女性名を名乗った作品を残したことを生かし、正月らしい祝祭感あふれる内容とも合わせて、世間がよい状況になりますようにという制作意図と、「生まれ変わるなら女がいいからさ」という歌麿の切ない思いをストーリーに乗せました。史実と想像を巧みに組み合わせたドラマの語りでした。こうしたほろ苦い経験と魂の遍歴を経て、歌麿は世界史に名を残す唯一無二のアーティストへの道を進んでいく、ということかもしれません。歌麿の飛躍の時が楽しみです。
米価格の高騰、危機感強める意次
天明の大飢饉が本格化し、米価格の高騰が家計を直撃しました。幕府の無策に対する批判も目立ってきます。矢面に立つのは最高実力者である田沼意次。
「主殿頭(とのものかみ)」は意次が任じられた官職名で、意次の通称になっていたのは「べらぼう」でもおなじみ。「頼み事をするたびに、田沼の殿様も家来もやたらに賄賂を取り込もうとする」と揶揄する落首です。
落首とは世相や人物を批判する目的で、公共の場に掲示される匿名の歌のこと。世間の批判の高まりを受けて、権力闘争の感覚に優れた意次は、米価対策を失敗したら命取りになる、と敏感に察知しました。
御三家・紀州藩の藩主で、緊縮財政で知られた徳川治貞(高橋英樹さん)からも米の流通が滞っていると叱責されます。
「江戸物価事典(展望社)」によれば、白米1石の小売価格は、天明元年(1781)春に銀58・5匁だったのが、同年秋は70・8匁、天明2年の春77・3匁、秋91・6匁と年々上昇。3年春98・3匁、秋103・2匁、4年春112・2匁と、一本調子で上がり続けました(いずれも京都の相場)。
奉公人に食べさせる米の値上がりで四苦八苦していた蔦重。街を歩いて一部の業者が米を出し渋り、意図的に高値を維持していることに気付きます。
安い米がほしいと、蔦重が吉原で接待した札差(米の仲介業者、林家たい平)も「一昨年の米ならもっと安いのがあるよ」と明かしました。
米の流通をめぐる様々な裏側を垣間見た蔦重でした。
株仲間の存在が公正な取引を阻害する方向に働くことがある、という蔦重の問題提起を受けて、意知は新たな米価対策を立案。幕閣の中で存在感を高めます。米問題を片付けて、恋しい誰袖の身請けを急ぎたい意知。しかし好事魔多し、なのでした。
意知への憎しみ募る廣年、政言
誰袖(福原遥さん)の心を掴んでいると思い込んでいた松前廣年(ひょうろくさん)。しかし「雲助」なる男が誰袖の本命であることを吉原で知り、その男を江戸城内で目撃。ライバルが田沼意次の嫡男、意知であることを知ってしまいます。
颯爽と江戸城内を歩く田沼親子の姿に、フラストレーションがたまる佐野政言(矢本悠馬さん)。その表情にも危険なものが漂い始めます。
意知の悲劇まで恐らくあとわずか。果たして廣年がどんな役割を果たすことになるのでしょうか。次週以降の展開に手を汗握ってしまいそうです。
狂歌、ことわざ…文芸大河は続きます
最後にドラマで登場した文芸をご紹介しておきます。
安く米を斡旋してくることになった札差へのプレゼントとして、蔦重が四方赤良(大田南畝、桐谷健太さん)に狂歌を書いてもらった扇の文字がちらりと目に入りました。「蜀山百首」に収載された赤良の作です。
『蜀山百首』(東洋大学附属図書館所蔵) 出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100449003 を一部加工「世の中に女なんてものがいなければ、男たちも心穏やかに過ごせるのに」。元ネタがすぐに分かる狂歌です。美男子の代名詞と知られる在原業平の秀歌、「古今和歌集巻第一 春歌上」にあります。
鈴木春信筆「三十六歌仙・在原業平朝臣」東京国立博物館蔵出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)「世の中に、桜というものがまったくなかったなら、春はどんなにのどかな気分でいられろうだろうに。」(新潮日本古典集成「古今和歌集」より)。反語的に女性や桜の存在の素晴らしさを讃える両歌。ストレートなパロディながら、ニヤリとさせられます。業平の歌だからこそ、「をとこの心」がぴたりとはまります。
教養豊かなていさん。日常会話にもことわざが次々と出てきます。
子鳩は親鳩のとまっている枝より三枝下にとまって礼節をまもり、烏は親の恩に報いるため親鳥の口に餌をふくませ孝行する。(「ことわざを知る辞典」(小学館)うより)。これからも、ていさんの知識を存分に発揮して、耕書堂の面々に学びを与えてくれそうです。
(美術展ナビ編集班 岡部匡志) <あわせて読みたい>
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