【武井 彩佳】イスラエル人の中にはなぜアメリカ人やドイツ人が多いのか?日本人にはなじみにくい「複数国籍」の実像
イスラエルとハマスによるガザ紛争は2年の時を経て2025年10月に停戦合意が成された。しかしいまだにイスラエルによる空爆は続き、イスラエルの強硬な姿勢はホロコーストの記憶とも結びつけられる。
ドイツはナチズム克服のため、謝罪と補償を追求し「反ユダヤ主義」を徹底してきたが、それによってドイツとイスラエルの特殊な関係が生まれている。
補償のひとつとして、ドイツはナチ時代に迫害したユダヤ人に対してドイツ国籍の回復を憲法で認めており、ガザ紛争が始まって以来イスラエルでのドイツ国籍の取得者は増加している。「世代を超えた贈り物」としてのEU国籍を持つイスラエル人にとって、複数国籍にはどのような戦略的なメリットがあるのか。
※本記事は武井彩佳『ホロコースト後の機能不全 ドイツ、イスラエル、犠牲と加害の関係』(角川新書)から抜粋・編集したものです。
複数国籍という財産を持つイスラエル人
ドイツ政府は基本法第一一六条第二項による国籍取得の件数を発表していないが、イスラエルからの申請が最も多く、その次にアメリカ、アルゼンチンとなっている。つまりかつてユダヤ人の亡命先となった国々である。そして近年ではブレグジットでEUを去ったイギリスからの申請も少なくないという。報道によると二〇一七~一八年、第一一六条第二項に基づく国外からの国籍の申請件数は一万件ほどあり、そのうち三九〇〇件ほどが認められている。
さらに二〇二一年八月、ドイツは国籍法を改正し、ナチ時代の迫害を理由とする国籍取得を容易にした。基本法第一一六条第二項の条件に該当しないナチ犠牲者もいたため、彼らの子孫からの要請に配慮した形だ。この結果、ハマースのテロ以降はイスラエルからの申請がさらに増え、二〇二四年一~四月だけで約七〇〇〇件の申請があった。
ドイツの側から見ると、ホロコーストから八〇年を経た現在では、ドイツ・ユダヤ人の子孫といっても三世代、もしくは四世代目にあたり、彼らは文化的にも言語的にもドイツとは縁遠い。それでも国籍付与は過去の不正に対する「償い」である。実際に、ドイツ政府は二〇二一年の法改正を「補償としての国籍取得」と位置づけている。
逆に申請する側では、国籍取得がドイツ出身者の子孫であるというアイデンティティの問題であることはほとんどない。むしろドイツ国籍はEU圏内での自由な居住・就労を可能とし、大学進学や奨学金の取得にも役に立つ、より良い生活と将来のための手段なのである。戦争が多いイスラエルでは他国籍を持つことは一種の保険のようなもので、これまでも何かあったときには一時的に避難する手段として使われてきた。実際に、二〇二三年一〇月のハマースの襲撃の後の二ヶ月で、五〇万人のイスラエル人が国外に流出したとされる。
「複数国籍」は現実的な手段でもある
実は、ホロコースト難民の子孫によるヨーロッパ国籍の取得は、ドイツ国籍に限った現象ではない。ナチ・ドイツの一部であったオーストリアも、ドイツと同様、国籍喪失者に国籍を再付与する法を持っている。また近年では、イスラエル人がポーランド、ルーマニア、ハンガリーなど東欧諸国の国籍を取得する事例が増えている。これも、国籍の血統主義の結果である。ただし東欧諸国に関しては、ドイツやオーストリアとは多少事情が異なる。どういうことだろうか。
東欧では二つの大戦で何度か国境線が動いたために、民族・言語の分布と地理的国境は一致していない。領土と国民から切り離されてしまった民族同胞の離れ小島が存在する状態だ。例えば、スロヴァキアやルーマニアにはハンガリー系の住民が暮らしている。ポスト冷戦の時代に民族主義的な傾向を強めた東欧諸国は、こうした遠隔地の民族同胞を再度エスニックな「想像の共同体」に取り戻す手段として、国籍制度を再発見した。つまり、国籍の血統主義に立てば、他国家に取り込まれてしまった同胞を、国民の中に象徴的にも取り戻すことができるというわけだ。
そのためにはまず東欧諸国が自ら複数国籍を容認する必要がある。現在他国の国民である民族同胞が、居住国の国籍を離脱せずとも、自国籍を取得できるようにしなければならない。東欧諸国は社会主義の時代には複数国籍を認めていなかったが、体制転換以降に方針を変更した。
その上で戦争による国境変動や領土割譲などを理由として国籍を失った者に対し、取得申請を認めることで、国籍の付与が民族主義的な国家の野心を実現するための手段とされたのである。実際にハンガリーは、近年国外に住むハンガリー系の住民に国籍を与える措置をとって、スロヴァキアとの間で国際的な問題となっている。
東欧諸国は領外の民族同胞の再国民化を意図したのであり、ユダヤ系の元国民の子孫の国籍申請まで考えていなかったかもしれない。血統主義的・民族主義的な原理を掲げる国は、同様に民族原理に立つ他国の国籍制度と類似点が多く、親和性が高い。イスラエル人の東欧国籍の取得は、こうした状況にうまく適応したものである。実際にイスラエルのユダヤ人の四割ほどが中欧・東欧出身者を家族に持つと言われている。そうすると国民の半数近くに一人や二人のヨーロッパ出身の祖父母がいることになり、実に多くのイスラエル人が何らかのEU国籍の取得の権利を有する可能性がある。現にEU国籍を保持するイスラエル人は三八万人程と推定される。
ただし、実際にはこうした国籍取得はパスポート上のみで、国民としての実体を伴わない。若いイスラエル人にとっては、EU国籍は祖先から継承した「世代を超えた贈り物」、つまり一種の財産として認識されているようである。かつては、ドイツはいうまでもなく、ユダヤ人が長らく反ユダヤ主義的な国と見なしてきたポーランドやルーマニアなどの国籍を取得することは、イスラエル人にとっては誇れることではなかったが、東欧諸国がEUに参加し、経済発展を成し遂げると、そのような雰囲気もなくなった。複数国家への帰属は、グローバル時代に個人が政治経済的な理由で選択可能な戦略なのである。
国家間のすきまに落ち込んだパレスチナ人
こうした状況をパレスチナ人と比較すると、やはりその格差は明白である。まず、占領地のパレスチナ人がイスラエル国籍を取得することは想定できない。パレスチナ人がイスラエル国籍のアラブ系市民と結婚し、イスラエル国籍を得ることすら難しい。対して、欧米など他国籍を持つパレスチナ人が、故郷に戻る権利を合法的に手に入れるためにイスラエル国籍を得ようと思っても、事実上その道は閉ざされている。
逆に国内のアラブ系市民がイスラエルの敵対するアラブ諸国に出国したり、その国籍を得たりすると、イスラエル国籍は剝奪される。現在ユダヤ人は複数国籍者として国境を自由に越えていくが、パレスチナ人には国籍は壁のようなものとしてそびえている。人を特定の国家に紐づける世界システムの中で、国家間のすきまに落ち込んでいるパレスチナ人の状況は、まさにナチ時代にユダヤ人が直面したものと同じである。
現在、イスラエル人の複数国籍は新たな局面にあるようだ。二〇二三年一〇月のハマースによる襲撃で、多数のイスラエル人が殺害され、拉致されたとき、その中には少なからぬ「アメリカ人」や「ドイツ人」「フランス人」が含まれていた。イスラエル政府による発表では、約一二〇〇人の犠牲者のうち、二五〇人ほどは外国籍であったという。
報道でも「アメリカ国籍」「ドイツ国籍」と紹介されたが、なぜドイツ人がイスラエルで被害に遭っているのか、旅行中だったのかといぶかしく思った人もいただろう。実際には、彼らは大半が複数国籍のイスラエル人であった。さらにハマースの人質になった約二五〇人は二五カ国のパスポート保持者であり、その中には一五人のアルゼンチン人、一二人のドイツ人、一二人のアメリカ人、六人のフランス人、六人のロシア人などが含まれていた。
イスラエル国内の複数国籍者は約八四万人、人口の約一〇パーセントとされる。二つ以上の国籍を持つ多重国籍者も少なくないので、延べ数としてはさらに多いだろう。現在イスラエル人の複数国籍は極めて多元化している。
国籍が国家の安全保障となる
複数国籍所持の目的は、まず個人レベルでは社会経済的な上昇の達成の他に、戦争や経済危機など、何かあったときの一種の「保険」である。例えば二〇一〇年代、フランスでイスラム過激派によるテロが続いてイスラエルに移住するユダヤ人が増加したが、実際には移住といっても完全にフランスを去るのはまれで、多くの者はイスラエルとフランス間を行ったり来たりを繰り返すことが多い。またEU諸国の大学の学費は多くが無償か、英米に比べるとかなり安いため、教育を受けるという点でもメリットがある。さらに彼らはもう一つの国の文化や習慣に通じ、言語能力も高いため、職業的にも需要が高い。
国家的なレベルでは、複数国籍の容認には政治経済的な側面がある。国家は国外の同胞に対して影響力を維持できる。先に一九九〇年代以降に旧ソ連地域からイスラエルヘ移住した者たちはロシア国籍を維持することが多いと指摘したが、ロシア大統領選が行われれば、テルアビブのロシア大使館にはロシア国籍を持つイスラエル人が投票に訪れる。
経済的には、国籍者でなければハードルが高い会社や法人の設立といった困難が解消されるだけでなく、資金の移動も容易になる。ソ連崩壊後にロシアで勃興したオリガルヒ(新興財閥)にはユダヤ系が多かったことが知られているが、中には帰還法によってイスラエル国籍を持つ者もおり、彼らがイスラエル経済に資金を投入してきたといわれる。こうした関係があるため、イスラエルはプーチンのロシアとも独自のつながりを持っている。
外交・軍事レベルになると、複数国籍者は複数の国家と紐付いているため、何かあったときに外交保護権の衝突といった事態が生じる可能性はある。しかしこうした関係はむしろ、人を介した一種の安全保障体制を生んでゆく。ハマースの人質がイスラエル人であると同時にアメリカ人であり、ドイツ人である時、これらの国々は無関心ではいられない。つまり複数国籍者が増えれば増えるほど、国家にとっては国民に関係する安全保障事案は世界各地に存在することになる。
イスラエルの政策に対して、欧米諸国が懐柔的なのはなぜかという問いが繰り返されているが、こうしたつながりを無視することはできないだろう。ガザの戦争は局地的な紛争ではなく、国籍の面でも現実に国際的な紛争なのである。
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