「SNS発の誤情報」があっという間に"事実"になる…正しい情報ほど信頼されなくなった日本の「深刻な現状」 求められているのは「説明」から「信頼」への転換
人間の脳は、既に持っている考えや価値観に合う情報を好み、それに反する情報は意識的・無意識的に排除する傾向を持つ。これを心理学では「確証バイアス」と呼ぶ。
たとえば、有権者が「ある候補を信頼していない」という前提を持っていれば、その候補に不利な誤情報が流れたとき、「やっぱりそうだったのか」と感じやすい。
この「やっぱり」の直感こそが、誤情報を“心理的に用意された正解”にしてしまう。誤情報は、事実としての正確性ではなく、“感情的な整合性”によって受け入れられてしまうのである。
「正しさ」より「近しさ」を信じる時代
近年、私たちはメディア、政府、専門家といった“公的な情報源”への信頼を失いつつある。代わりに、SNS空間では「信頼できる誰か」よりも、「共感できる誰か」が重視されている。
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その結果、たとえ発言者が匿名でも、「自分と似た立場の人」が発した言葉のほうが信じられる構造が形成されている。
正しさより、近しさ。
肩書きより、共感。
その変化こそが、今の情報空間を“信頼の迷子状態”にしている要因のひとつだ。
嘘は1秒で拡がり、真実は3日かけても届かない
誤情報の拡散力は圧倒的である。インパクトのある断定的な言葉は、1秒で何万人に届き、リツイートされ、拡散される。
一方で、ファクトチェックや事実確認は時間がかかり、内容も地味で、長文になりやすい。そのため、届いた頃にはすでに「空気」は形成され、印象は定着している。
「嘘は靴を履く前に、真実は半周走っている」
この逆説が、今の選挙環境ではリアルな現実として展開されている。
“信じられていること”が、“信じる根拠”になるという錯覚
SNSの「いいね」や「リツイート」、コメントの多さは、あたかもその情報が“真実である”かのような印象を与える。多数の人が賛同している、あるいは話題にしている。それだけで、その情報には「信頼に足る何かがある」と感じてしまう。誤情報であっても、「みんなが信じているように見える」ことで、“信じられていること”が“信じる理由”になってしまう。
ここに、ソーシャルメディア時代の認識の罠がある。
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今回の参議院選挙で拡散されたSNS上の誤情報は、一候補への風評や誤解という次元を超えた深刻な問題である。単なる情報の誤りではなく、民主主義の根幹に関わる「公正な選挙」という制度の信頼性と、「公共言論空間」という民主社会のインフラの劣化が問われている。
特にSNSを通じて増幅された誤情報が、特定の候補者に与える心理的・実質的ダメージは、政治参加へのハードルを上げ、有権者の判断を歪める結果となっている。これが構造的な問題である理由は、いくつかの要素が制度的に交錯し、それが複合的に民主主義の機能不全を引き起こしている点にある。
まず、SNSの設計上、短く刺激的で断定的な言葉が極めて拡散されやすい。一方で、誤情報に対する訂正やファクトチェックは、丁寧であるがゆえに長文になり、注目されにくく、届きにくい。訂正は往々にして静かに語られ、怒りや恐怖を喚起しないが、まさにそれが理由で、関心を集めないのだ。
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XやYouTubeが「誤情報を放置」している
次に、誤情報の被害を受けた候補者が否定や反論を行うと、その反論自体が再び拡散されるというジレンマがある。これは「ストライサンド効果」(ある公開された情報を秘匿・除去しようと試みる行為が、かえってその情報を広い範囲に拡散させてしまう結果をもたらす現象)と呼ばれる現象であり、否定すればするほど、その誤情報の存在を知らなかった人々にまで広がってしまう。つまり、候補者は「反論すべきか否か」という時点で、すでに負けている構造に巻き込まれている。
さらに、プラットフォーム側の対応も深刻だ。X(旧Twitter)やYouTubeなどの大手SNSは、法的あるいは政治的な中立性を理由に、選挙期間中の誤情報に対して介入を極めて慎重に行う。中立であるという名のもとに、結果として「誤情報を放置する」構造が温存されている。これは“規制の不在”ではなく、“制度の曖昧さ”が引き起こす構造的不介入と言ってよい。
そして最も厄介なのは、こうした誤情報がどれほどの影響を及ぼしたのかを「可視化できない」点である。誰が何を信じ、どのような投票行動に結びついたのか。それを後から評価する手段は事実上存在しない。つまり、誤情報が選挙結果に関与していたとしても、その証明も是正もできない。制度としてブラックボックス化が進行しているのだ。
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そして最後に最も深い心理的背景がある。
人は、複雑で不確かな世界に生きることに、不安を感じている。事実がグレーであったり、判断が難しかったりする局面において、人は「明快で、わかりやすく、誰かを悪者にできる物語」を求める。誤情報は、その“わかりやすさ”を提供する。「これが真実だ」「あれが敵だ」と明言してくれることで、心に“居場所”を与える。
つまり、誤情報とは「事実」ではなく、“安心”や“確信”の感情パッケージなのである。
誤情報は、知性の不足によって信じられるのではない。むしろ、感情的ニーズに的確に応える“構造化された慰め”であり、「心の中の正しさ」にすり寄る巧妙な情報設計なのである。この社会心理の構造を変えなければ、どれほど正しい情報を用意しても、人々には届かない。
ではその構造に対して、私たちはどう向き合えばいいのか、信頼をどう再設計すべきかという問いを考えたい。
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なぜ「正しい情報」では届かないのか
これまで述べてきたように、SNS時代においては、誤情報の拡散は単なる技術的問題ではなく、社会心理や制度設計そのものの課題である。だが、ここで改めて問うべき根本的な問いがある。それは、「なぜ正しい情報が届かないのか?」という問いだ。
私たちはつい、「もっと正確に伝えればいい」「ファクトチェックを徹底すればよい」と考えてしまう。しかし現実には、どれだけ情報が正しくても、それが人々の意識や行動に届かない場面は数えきれないほどある。それはなぜか。
「正しさ」は、もはや情報そのものには宿っていない
かつて、情報の正しさとは知識の質であり、新聞や学者、専門家がその象徴だった。誰が言うかではなく、何を言うかが問われた時代である。しかし現代では、その構図は完全に反転している。重要なのは「誰が言ったか」であり、さらに言えば「その人を自分が信じているかどうか」である。
つまり、情報は“真偽”によって受け取られるのではなく、“帰属感”によって選ばれる。どんなに正確で客観的な情報でも、送り手と受け手の関係性が希薄であれば、それは「自分に関係のないノイズ」として処理されてしまう。
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こうした環境の中で唯一機能しているように見えるのがファクトチェックである。しかし、その実効性には限界がある。ファクトチェックには時間がかかる。誤情報は数分で数万リーチを獲得する一方、ファクトチェックの結果が届く頃にはすでに状況は動いている。加えて、訂正情報を見たとしても「信じたい人は信じ続ける」。人間の心理は、合理性よりも信念を守る方向に働くため、誤情報は容易には修復されない。
これらの構造を総合的に捉えると、我々が直面しているのは「制度上の一時的トラブル」ではなく、民主主義そのものの設計限界であることが明らかになる。なぜなら今や、「何を事実として信じるか」という判断すら、制度ではなく“感情と環境”によって操作されるようになってしまったからである。
いったん広がった誤情報は、たとえ後で訂正されても、その訂正は有権者の投票行動に反映されにくい。つまり、選挙において誤情報は不可逆的な効果をもつ。投票後に「やっぱり間違いだった」と気づいても、その一票は戻らない。その意味で、選挙は極めて脆弱な制度となりつつある。
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SNSによる誤情報問題は、ネット空間だけの問題ではない。民主主義の土台を揺るがす構造変化である。私たちは今、その土台の設計そのものを問い直さなければならない。
誤情報のほうに「整合性」を感じてしまう構造
現代の選挙は、政策や論点だけで勝負されているわけではない。むしろ、有権者の「感情」「信念」「不安」といった見えない心理領域こそが、その意思決定を根底から揺さぶっている。SNS上で拡散される誤情報が、ファクトよりも力を持ってしまうのは、人々が非合理だからではない。それは、社会心理と認知の構造が、誤情報のほうに“整合性”を感じてしまうように設計されているからである。
ここからは、その構造を6つの観点から分析していきたい。
感情が理性を上書きする情報空間
SNSの世界では、「正しいかどうか」より「気持ちが動いたかどうか」が優先される。怒り、共感、驚き、憤り──そうした感情を揺さぶるコンテンツほど、拡散されやすくなる。
その瞬間、人は「これは事実か?」と冷静に問う前に、「これは自分の思っていることに近い」と感じる。この“感情の解釈枠”が、真偽の判断よりも先に脳内に立ち上がる。
信念に合致した誤情報のほうが、冷静な事実より“納得感”をもって受け入れられてしまうのだ。
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ここにもう一つの重要なパラドックスがある。情報があまりに「正しすぎる」場合、人はむしろそれを拒絶するという事実である。
心理学では、これを「認知的不協和」と呼ぶ。人は、自分の信念や価値観を脅かす情報に対して、防御的な態度をとる。たとえそれが事実であっても、「それを認めてしまったら、自分が間違っていたことになる」。この心理的ハードルは想像以上に高い。
特にSNSの文脈では、訂正の言葉はしばしば“攻撃”として受け取られる。「あなたの考えは間違っている」と告げることは、「あなたという存在を否定している」と受け止められかねない。
その結果、人々は自分の世界観を守るために、“誤情報の沼”にとどまろうとする。つまり、真実は鋭すぎると刃物になり、対話の扉を閉ざしてしまうのだ。
情報は「意味」を持たなければ、ただのノイズになる
情報が届くとは、単に内容が伝わることではない。人は「正しいかどうか」を判断する以前に、無意識にこう問いかけている。
「これは自分に関係があるのか?」 「なぜ、今、自分がそれを知る必要があるのか?」
この“意味”の回路が開いていなければ、どれだけ正確な情報もスルーされる。つまり、情報が届くためには、事実性だけでなく、「文脈」と「感情」の設計が必要なのだ。
事実を提示することは重要である。しかし、それが「なぜ必要なのか」「誰にとってどんな意味があるのか」が伴わなければ、ただの情報の断片で終わってしまう。
正しさとは、“説明”ではなく“設計”の問題である
現代において、正しさは知識や内容の問題ではない。それはむしろ、関係性の問題であり、設計の問題である。誰が、どのような立場から、どんな感情とともに語るか。それによって、まったく同じ内容の情報でも届き方が変わる。また、人々のリテラシーに責任を転嫁する発想もまた、容易に押し付けに変わる。
だからこそ、いま求められているのは、「説明力」よりも「信頼設計力」なのだ。
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ではこの信頼をどう再設計していけばいいのか。社会全体として何ができるのかを探っていく。