「死の病から40年」─ HIVは“治る”時代へ。U=Uが示す新たな常識とは
かつて「死の病」と恐れられた「HIV/AIDS」。診断されれば社会から隔絶され、限られた時間を苦痛とともに過ごすしかなかった時代がありました。しかし、現在では1日1錠の薬を飲むだけで、感染していない人と変わらない寿命を全うできる時代が到来しています。
「U=U(検出限界未満=感染しない)」という革命的な概念により、性的接触で感染しない時代になりました。外務省主催TICAD9のテーマ別イベント、国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所のシンポジウムで、同研究所の保富康宏氏と東京大学の古賀道子氏が語った、HIV治療の劇的な進化に迫ります。
登壇者: 保富 康宏(国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所霊長類医科学研究センター センター長)
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酪農学園大学獣医学部卒業、同大学院獣医畜産学研究科獣医微生物学専攻修了。ハーバード大学医学部研究員、同助手を経て、三重大学医学部助教授に就任。2007年より独立行政法人医薬基盤研究所(現・国立研究開発法人医薬基盤・健康・栄養研究所医薬基盤研究所)霊長類医科学研究センター長および三重大学大学院医学系研究科教授を兼任。2025年8月より北海道大学ワクチン研究開発拠点特任教授を併任。30年以上にわたりHIVワクチン開発研究に従事し、特に霊長類を用いた治療ワクチンの開発において先駆的な成果を上げる。「治療から治癒へ」という理念のもと、生涯服薬からの解放を目指した革新的アプローチを展開。アフリカを含む国際的な共同研究にも積極的に取り組み、「エイズの脅威からアフリカを救う」ことを目標に、日本の技術を世界の課題解決に活かすことを使命としている。
登壇者: 古賀 道子(東京大学新世代感染症センター 感染症研究分野教授)
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東京医科歯科大学(現・東京科学大学)医学部医学科卒業、東京大学大学院医学系研究科修了。日本におけるHIV/AIDS診療の専門家として、臨床現場からの視点でHIV感染症の現状と課題について研究・診療に従事。年間約1000人の新規HIV感染者が報告される日本において、約30%を占める「いきなりエイズ」(エイズ発症後に初めて感染が判明)という診断の遅れを問題提起している。特に日本の薬害エイズ被害者の差別・偏見の歴史を重んじ、現在のHIV陽性者の高齢化に伴う合併症管理、U=U(Undetectable=Untransmittable:検出限界未満なら感染しない)概念の普及、PrEP(曝露前予防内服)の必要性を説く。「HIVは日常生活では感染しない」という正しい知識の普及と、差別・偏見の解消を通じて、HIV陽性者が社会で普通に生活できるよう診療面からサポートしている。
登壇者: スカーレット・コーネリッセン(南アフリカ・ステレンボッシュ大学教授)
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アフリカの国際政治経済、特にアジアとの外交・経済関係に関する専門家。ケープタウン大学卒業、ステレンボッシュ大学修士号(国際学、1997年・応用倫理学、2015年)、グラスゴー大学で博士号(都市研究、2002年)を取得。ハーバード大学ラドクリフ高等研究所キャサリン・ハンプソン・ベッセル研究員(2016年)、ライプツィヒ大学ライプニッツ教授(2015年)を歴任。また、京都大学、東京外国語大学、立命館大学、関西大学および日本経済研究所でも客員教授を務めた。現在は、ステレンボッシュ大学政治学部教授であり、同大学日本センター所長を務める。
HIVは「Human Immunodeficiency Virus(ヒト免疫不全ウイルス)」の略で、主に性的接触による感染、血液を介しての感染(注射器・注射針の共用など)、母子感染などによって感染します。1981年にアメリカで男性同性愛者の間での免疫不全症が報告され、1983年にフランスのバレシヌシ博士・モンタニエ博士らがHIVを発見しました。この功績により二人は2008年にノーベル賞を受賞しています。
古賀氏によると、感染後の経過は段階的に進行します。感染直後の2~4週間は急性期と呼ばれ、発熱やリンパ節の腫れなど、インフルエンザのような症状が出ることがあります。その後、無症状の慢性期が約8年続きます。
免疫力の指標となる「CD4陽性T細胞」(体を守る免疫システムの司令塔となる細胞)が、治療しなければ減少し、健康な人では通常1500個/μL以上あるものが200個/μL以下になります。普段なら問題にならない弱い病原体でも重篤な感染症を起こす「日和見感染症」を発症します。この段階を「エイズ」と呼びます。
革命的な治療の進歩 – 「U=U(検出限界未満=感染しない)」
現在の抗HIV療法は、ウイルスの増殖を強力に抑制します。治療により血中のウイルス量が検出限界未満(通常の検査では見つからないレベル)になれば、性的接触しても他人に感染することはありません。これがU=U(Undetectable = Untransmittable)という概念です。
このU=Uは、WHO(世界保健機関)も認める科学的事実として確立されています。古賀氏は「HIVに感染していても適切な治療を受けていれば、パートナーへの感染リスクはゼロ。これは本当に重要なメッセージです」と強調します。「治療すること」が「予防すること」なのです。
予防の新時代 – PrEPという選択肢
治療薬の進歩は予防にも革新をもたらしました。PrEP(Pre-exposure Prophylaxis:曝露前予防内服、感染リスクがある行為の前に薬を飲む方法、ただし定期的なHIV検査等が必要です)について、古賀氏は説明します。
HIVに感染していない人が予防的に薬を飲むことで、感染リスクを大幅に減らせます。2015年にWHOが推奨を開始し、現在では世界で350万人以上が使用しています。薬の形態も進化を続け、2021年にはHIV薬の腟リング、2022年には8週間ごとの長期作用型注射剤が承認されました。そして2025年には年2回の注射剤を推奨しましたが、価格は約2万ドル/回と高額です。
日本の現状 – 年間新規感染と診断の遅れ
日本では年間約1000人の新規HIV感染者が報告されていますが、約30%が「いきなりエイズ」、つまりエイズを発症してから初めてHIVに感染していたことが判明するケースです。古賀氏によると、日本では推定で約3万人がHIVと共に生活していますが、その約85%しか診断されていません。これは95%を目標とする世界基準より低い数値です。
診断の遅れの背景には、根強い偏見と差別があります。特に地方では、検査を受けることへの心理的ハードルが高く、大きな障壁となっています。
薬害エイズの教訓 – 日本が背負う歴史
日本のHIV/AIDS対策を語る上で避けて通れないのが薬害エイズ問題です。血友病(血液が固まりにくい遺伝性の病気)患者が、治療に使う血液製剤がHIVに汚染されていたことで感染した事件です。
古賀氏は「被害者の多くは現在50歳以上になり、幼少時に受けた差別・偏見に苦しんでいます」と説明します。
「現在の日本のHIV陽性者はほとんどが性的接触、多くが男性間性交渉で感染したことが示されています。HIV治療薬の改善とともに、平均年齢は上昇し、HIV陽性者は、一般の方に比べ合併する疾患が多いことも知られてきました。がんや生活習慣病、メンタルなどの問題が若年から生じることが示されています。70歳以上の方もおり、高齢化するHIV陽性者への対応は、日本の大きな課題です」と説明します。
治療ワクチンへの挑戦 – 「機能的治癒」は可能か
現在の治療では、薬を飲み続ける限りウイルスを抑制できますが、完全に排除することはできません。薬をやめればウイルスは再び増殖を始めるため、HIV陽性者は生涯にわたって服薬を続ける必要があります。
この課題に挑んでいるのが、保富氏らの研究チームです。 「我々は、エイズウイルスの一部の遺伝子を削除した弱毒化ウイルス(病原性を弱めたウイルス)をベースに、免疫を活性化させる治療ワクチンを開発しています」と保富氏は説明します。
サルで実証された驚異的な成果
保富氏らがおこなったサルを用いた実験の成果は、医学界に大きな希望を与えました。
7頭のサルにワクチンを接種し、その後抗ウイルス薬を中断したところ、血中のウイルス量は一時的に上昇しましたが、その後自然に抑制され、数ヶ月間検出限界以下を維持しました。さらに注目すべきは、4頭では完全にウイルスが排除され、さらに2頭では検出されない状態になったことです。
「この2頭は『機能的治癒』と呼べる状態です。ウイルスの排除もしくは完全にウイルスを排除できなくても、薬なしでコントロールできる。これが我々の目指すゴールです」と保富氏は報告しています。
グローバルな視点 – アフリカの現状と国際協力
古賀氏はUNAIDSが掲げる「95-95-95ターゲット(感染者の95%が診断を受け、その95%が治療を受け、その95%でウイルスが抑制される)」について説明しました。 「2024年時点で87%-89%-93%まで到達していますが、地域による格差が大きいことも明らかになっています。 」と強調しています。
シンポジウムでは、南アフリカ・ステレンボッシュ大学のスカーレット・コーネリッセン教授も登壇し、アフリカの現状を報告しました。 サハラ砂漠より南の地域は世界のHIV陽性者の約70%を占めています。しかし、ウガンダのように国を挙げて対策に取り組み、感染率を大幅に減少させた成功例もあります。
正しい知識こそが偏見を解く鍵
古賀氏は「HIVは適切に治療している人からは性的接触で感染しません。この科学的事実を、もっと多くの人に知ってほしい」と訴えました。
保富氏も「エイズを特別視せず、ほかの慢性疾患と同じように考えることが大切。糖尿病や高血圧と同じく、薬でコントロールできる病気なのです」と付け加えます。
編集部まとめ
40年前の「死の病」は、今や1日1錠の薬でコントロール可能な慢性疾患となりました。U=Uにより性的接触で感染しない時代になりました。そして近い将来、治療ワクチンにより薬から解放される可能性も見えてきています。
しかし、医学がどれだけ進歩しても、社会の偏見と差別がなくならなければ、本当の意味での「普通の生活ができる時代」は訪れません。必要なのは、恐れることではなく、正しく知ることです。HIV/AIDSを特別視せず、共に生きる社会を作ること。それが、この40年の医学の進歩が私たちに問いかけていることなのかもしれません。