「自分党で人材難」墓穴掘って維新隆盛生んだ大阪自民 凋落の転機と当事者たちの自己分析 大阪自民の針路(中)

自民党大阪府連の歴史は、元自民府議で日本維新の会創設者の松井一郎(61)抜きには語れない。

「信念があり、正しいと思ったら強引に進めるところもあった」。平成15年に府議に初当選した松井を元自民府議団幹事長の朝倉秀実(72)はこう評する。

庁舎移転否決で亀裂

松井にとって改革の一丁目一番地は、大阪市の人工島・咲洲(さきしま)への府庁舎移転だ。府議2期目の21年3月、当時知事の橋下徹(56)が提案した移転条例案は府議会本会議で反対多数で否決された。

最大会派の自民府議団(49人)は、松井の働きかけもあって賛成方針を決めた。だが松井いわく「水面下の交渉で採決が無記名投票になり(造反者が出て)潰された。許せなかった」。

現在の大阪府咲洲庁舎=大阪市住之江区

ここが、自民府連の転機だったかもしれない。

「なれ合い、もたれ合い、前例踏襲。先輩方は仲良しクラブでいいと言ったが、俺は政策実現の集団だと思っていた」

松井はこう述懐する。移転条例案否決によって生じた亀裂は深く、松井は橋下とともに22年、維新の母体となる地域政党「大阪維新の会」を設立。自民府連から離党勧告を受け、たもとを分かった。

当時、国政は民主党政権で自民は野党。橋下率いる大阪維新が標榜(ひょうぼう)する「改革」の二文字は、閉塞(へいそく)感を抱える府民の心に刺さり、23年の統一地方選で大阪維新は躍進した。一方、松井に「保身のための集団」と批判された自民府連は劣勢に立たされていく。

「国会議員がなめられた」

24年の衆院選で安倍晋三率いる自民党は政権を奪還した。しかし大阪府連にとって追い風が吹いたわけではない。府内で候補を擁立した15小選挙区の結果は、わずか3勝。残りの12小選挙区は選挙直前に設立された日本維新の会に敗れた。

維新を創設した元大阪府知事の松井と元大阪市長の橋下は、「大阪都構想」実現に向けて安倍や、安倍政権下で官房長官を務めた元首相、菅義偉(すが・よしひで)(77)と蜜月関係を築いた。

都構想が住民投票で否決された後の30年、大阪市内の焼肉店で安倍と会食した自民府連所属の地方議員らは口々に詰め寄った。当時、松井は2度目の住民投票に挑む考えを示していた。

「維新には近づかないでほしい」「われわれは都構想に反対です」。自民府連の存亡を懸けた切実な訴えを聞いた安倍はうなずき、こう応じた。

「住民投票はしょっちゅうやるものとは違いますね」

だが、この後も松井と安倍、菅の関係は変わらず良好だった。「国会議員がなめられていた」。複数の府連関係者が口をそろえる。前年の29年衆院選で自民は府内15小選挙区のうち10小選挙区で勝利。都構想は令和2年の住民投票で再否決され、自民府連にとって復調の好機だったが凋落(ちょうらく)した。なぜか。

共産とも連携

一つに、都構想否決は必ずしも維新政治の「否定」を意味しない。維新は平成23年以降、大阪府知事と大阪市長の座を独占し、府市連携による行政運営を実績としてアピール。府内の首長や議会の選挙で勝利を重ねた。一方、自民府連は共産党などと連携して都構想反対の論陣を張り、野合批判にさらされた。

松井は「自民府連が改革マインドを持っていれば、維新も厳しくなるが、いまなお前向きな政治集団になっていない。何をしたいか分からない」と指摘する。

もう一つは、「自分党」(朝倉)ゆえに適材適所が徹底されない組織風土がある。維新側は2度の住民投票否決を経て橋下と松井が引退し、代表を務める吉村洋文(50)が台頭した。「自民党は組織の中での適任者を選ぶという発想に乏しい。後発の人材をトップに抜擢(ばってき)する力はない」。朝倉はこう分析する。

「支部長ビジネス」と揶揄(やゆ)される慣行もある。自民府連関係者によると、国政選挙で敗北を重ねた後も後援企業などの寄付やパーティー収入を得ながら選挙区支部長にとどまり続けることで、結果的に新人の参入が困難になる。一部の選挙区支部長は公募が行われているが、人材の新陳代謝は道半ばだ。

自民府議出身で府連会長を務めた元衆院議員の宗清皇一(むねきよ・こういち)(55)は手厳しい。

「自民は現職優先。現状維持に甘んじ、有権者に近い距離で耳を傾けることを怠ってきた。府連は墓穴を掘ったんや」=敬称略

維新に勝てない「大阪自民」の混迷 確執体質で結束できず(上)

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