3歳でピラミッドを訪問、「家業」は考古学 マヤ文明の謎解きに生涯を捧げた研究者がいた

 私(筆者のデイビッド・スチュアート氏)のなかの最も古い記憶は、はるか遠くにあるマヤのピラミッドの姿だ。中米グアテマラのジャングルにそびえる石造りの巨大建造物。わずか3歳だった私は、てっぺんの入り口まで続く階段を見上げ、絶対にあそこまで登って見せると決意を固めた。しかし、母はまったく相手にしてくれなかった。 ギャラリー:「家業」は考古学、マヤ文明の謎解きに生涯を捧げた研究者がいた 写真9点  1960年代後半から70年代にかけて、考古学者としてナショナル ジオグラフィック誌で働いていた私の両親は、私ときょうだいたちを連れて、よく中米のマヤ遺跡を訪れていた。そこで私たちは、米国の子どもたちが誰一人想像したことすらない場所や人々に出会った。  当時、マヤの歴史を詳しく知っている者はいなかった。3歳の私が訪れたティカルのピラミッドについても、その建造を命じ、ピラミッドの内部に葬られた王の名さえわかっていなかった。理由は単純だ。マヤ文明の文字がまだ解読されていなかったからだ。  今でこそティカルは、初期のマヤ文明における最も重要な中心地のひとつとして知られている。だが、ここやほかの多くの遺跡に残る数百もの石に刻まれた古い象形文字は、誰にも読まれず、西暦200~900年頃のマヤ古典期の歴史は謎のベールに包まれていた。  これを私は、歴史的知識の「大きな断裂」と呼んでいる。マヤ文明の真実の物語は、社会の崩壊と、その後にやってきたスペイン侵略による文化の破壊によって長年の間失われていた。  しかし、古代文字の解読が飛躍的に進んだおかげで、現代の私たちは「断裂」に橋を架けられるようになった。ティカルの大ピラミッドは、強大な権力を誇っていたハサウ・チャン・カウィール1世という支配者が、西暦695年に敵国カーヌルとの戦いに大勝利したことを記念して建てられたこともわかっている。

 子ども時代、両親の職場は常に私に刺激を与えてくれた。父のジョージ・スチュアートは「ナショナル ジオグラフィック」誌の記者兼編集者であり、後にさまざまな科学研究や探検に助成金を出す研究・探検委員会の委員長を務めた。母のジーン・スチュアートもまた、同誌で働くアーティスト兼記者だった。そんな両親とともにさまざまな現場を訪れ、数多くの発見を目にするうちに、私もその魅力にはまり、マヤ文明の考古学者としての道を目指すことになる。  しかし、1970年代半ばにはまだ、古代マヤ文明を理解するための重要な要素が欠けていた。謎めいた古代のマヤ文字を解読する能力だ。  子どもだった私は、メキシコのコバ遺跡を歩き回りながら、森のなかに立つ石に刻まれた奇妙な形の文字を指さして、「なんて書いてあるの?」と父に尋ねたことを思い出す。すると父は「まだ読めないんだよ」と答えた。  それ以来、私はマヤの象形文字に夢中になった。動物、頭、奇妙な形の絵は、見ているだけでわくわくした。これについて著名な学者たちが何と言っているのか知りたくて、わずかばかりの資料を読み漁った(またはそうしようとした)。  ほとんどのマヤ考古学者は私の父の友人だったため、パーティやどこかで偶然会ったときに、同じ質問をぶつけてみた。やがてその交流や会話の内容は深くなり、私が10代になる頃には、私自身パズルの解読に少しばかりの貢献ができるようになっていた。  50年前のマヤ研究は、驚くほど開かれていた。学術的でありながら実験的でもあり、新しい意見やアイディアを喜んで受け入れた。私はちょうど良いときに、この分野に参入したのだった。  1980年の秋、グアテマラで古い壁画や精巧に書かれたマヤ文字が大量に残る洞窟が見つかったというニュースが、父のもとに飛び込んできた。「ナショナル ジオグラフィック」の編集長のウィルバー・ギャレットと父はすぐにグアテマラへ飛んだ。この調査旅行の記事は、後に本誌1981年8月号に掲載されることになる。  象形文字を調査するために、私も同行が許された。私自身の勉強のためでもあったが、その時すでにこの分野に向いていることを証明していたおかげだった。ただ、当時まだハイスクールの1年生(日本の中学3年生)だったため、宿題を提出することを条件に学校から授業を休む許可をもらう必要があった。  長時間かけてベリーズとの国境近くの森のなかを歩き、ナフ・トゥニッチ洞窟に到着した。洞窟はまるで大聖堂のように、丘の斜面に大きく口を開けていた。そこから奥の壁画にたどり着くまでに、洞窟内の大きなトンネルや狭い通路を、さらに数百メートル進まなければならなかった。地面には古代マヤ文明の陶器がいたるところに散乱し、ここが神聖な場所として長い間使われていたことを示していた。  ついに私たちは、腕の良い職人によって滑らかな洞窟の壁に刻まれた美しい文字を目にした。日付、名前、場所の名がいたるところに書かれていた。  このとき、私は人生で初めての解読を行った。8世紀の書記が、表音文字を使ってマヤ暦の月の名を綴っていたことを発見したのだ。後に私とほかの研究者たちは、ナフ・トゥニッチ洞窟の壁画が、黄泉の国への入り口である神聖な場所を訪れた王族の巡礼者によって書かれたものであると気付くことになる。

ナショナル ジオグラフィック日本版

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