新春対談:慶應義塾での学びと 戦後80年──無知を知ること|特集|三田評論ONLINE
伊藤 新年、明けましておめでとうございます。本日は前首相の石破茂・佳子夫妻をお迎えしてお話ししていきたいと思います。
石破茂さんは塾出身総理大臣としては4人目ということになりますね。
石破(茂) 犬養毅、橋本龍太郎、小泉純一郎、石破茂と。もっといそうなものだけど4人目なのですね。
伊藤 そうですね。ただ慶應義塾高等学校出身者、一貫教育校の出身者としては初めてです。さらには、ファーストレディと揃って慶應義塾出身というのも初めてのことになります。
石破(佳) 福田康夫元首相の奥様、貴代子様も慶應ではないですか。
伊藤 ファーストレディという意味ではそうですが、ご夫婦で慶應ご出身は初めてということですね。
まず慶應義塾で学んだことが、今までにどのように役に立っているか。また思い出はどういうものがあるかを伺っていきたいと思います。
石破(茂) 実は、総理辞任後ほどなく、昨年米寿を迎えられた指導教授の新田敏先生を囲む会に参加したのです。大学3年、4年の時にゼミで新田教授にご指導をいただいたことが、今でも一番役に立っているのではないかと思います。
もう鬼のような先生で、毎週レポートを書かされる。当時はパソコンもワープロもない時代で、A4のレポート用紙にとにかく書けと、課題が出る。物権法でしたが、毎週鉛筆で、小さな字でびっしり書かなければいけない。
法律学のレポートの書き方はだいたい決まっていて、まず論点を書き、その後、いろいろな学説の紹介をして、その後、自分の考えを結論として書くというのが定番ですが、それを毎週、先生が添削してくださるのです。本当に細かく、「ここは論理が飛躍している」「ここの論理構成は実に正しい」「こことここの整合が取れていない」など、添削してくださって、これは大変勉強になりました。
伊藤 そうですか。また石破さんは慶應義塾高校出身の初めての総理ですが、私が総理としての国会答弁を一度拝見した際、たまたま高校の授業料無償化の時でご自分の経験を話されていて、「高等学校で学びの質が急に変わった」とおっしゃっていました。これはどういうことでしょうか。
石破(茂) 私は中学校は鳥取大学附属中学校に通っていて、鳥取ではそれなりに勉強する子の集まりだったのですが、私でも一生懸命勉強すれば物理も化学もわかった。それが高校に入った途端、全くわからない。
伊藤 慶應高校はその頃も旧制高等学校のような、研究者肌の教員が多かったですからね。
石破(茂) 多かったですね。わからない奴はわからなくていいから邪魔をするな、後ろで寝てろという感じでした。
だから、私はもう数学のテストの前はすごく気が楽で、どうせ白紙だと。20分たったら出ていいというので、パッと出して、ほかの勉強をしていました。というわけですから、科目によってものすごくムラがあって、現代国語とか古文、漢文は学年の1番だったりするのですけど、数学は地球の言葉とは思えないからほぼ0点(笑)。
伊藤 そういう意味で質が変わって、学問の世界に足を踏み入れたという印象をお持ちだったのでしょうか。
石破(茂) そうでした。だから旧制高校と似ているのかもしれませんが、慶應高校の3年間は「大学で何を勉強しようかな」と考える期間だったような気がします。
こんな感じでしたから、もちろん医学部や工学部なんて全く考えませんでした。昭和50年に大学に入りましたが、当時、文系では経済学部が花形でした。成績としては経済学部にも行けそうだったのですが、数字を見ると頭が痛くなるようだったので、行ってよいものかと結構悩んでいたのです。
そんな高校3年の夏休み、地元の鳥取へ帰った時に本屋さんに行き、たまたま司法試験の受験雑誌を手に取りました。そこに司法試験の過去の問題とその解答案が出ていて、読みながら「こんなに面白い世界が世の中にあるんだ」と思ったのです。本当にあの時の感動は忘れられないですね。それで迷いは消え、法律学科へ行こうと決めました。
伊藤 そして法律学科に行ったことにより、佳子夫人と出会えたという(笑)。
石破(茂) それはもう、偶然の産物というか(笑)。だから、高校3年間で好きな勉強を好きなだけやらせてくれたことに感謝しています。私は高校・大学は本来つながっているべきものだと思っていますし、大学が4年間というのはちょっと短か過ぎないかと、今でも思っているのです。
伊藤 そうですね。私も今、中央教育審議会にかかわる中で大学部会と初等中等教育が分かれていることに、非常に大きな限界を感じています。おっしゃる通り、高校と大学での学びを一緒に考えたほうが、場合によっては自分探しの時間ができると思っています。
さて、佳子さんは、女子学院から受験で慶應に入られたということですが、慶應の印象や思い出、今、思う慶應のよかったことはどのようなことでしょうか。
石破(佳) 私の場合、高校までは別の学校におりましたので、大学に行くなら受験をしなければいけない。大学へ行くかどうか、悩んだこともございました。
進路を決めるのに非常に苦労しました。私は、女子校の中では、どちらかというと数学や理科のほうが得意で、成績がよかったのですね。それで、現代国語が女子の中では得意ではなかったのです。あの頃は文学部にいく女性がとても多かったのですが、私はその中ですごく悩みながら受験をしました。法学部に行きたいと思いましたが、慶應だったら政治学科か法律学科か、そこを大変迷いました。
伊藤 そうですか。慶應に入ってからはいかがでしたか。
石破(佳) 高校までの教育というのは与えられるもので、学習の仕方が決まっていたのが、大学に行きましたら全然違う。まずは法律というものの難しさの壁に、ぶち当たりました。本当にこの学部が自分にとってよかったのかなと悩んだ時期もありました。
伊藤 でも、この図書館旧館の中でお2人とも勉強されていたと伺っています。
石破(佳) 私は日吉の図書館が多かったと思いますが、土曜日にこちらで取っていた授業がございまして、その前後に三田の図書館にもよく来ていました。
伊藤 この図書館の旧館でお2人が出会ったということですが……。
石破(茂) 出会ったのではなく、私が目撃したのです。出会ったとは言いません(笑)。
土曜日は午前中、日吉で授業があって、午後は三田で法学演習というものがあったのですね。午前の授業が12時頃で終わり、その後、三田に来たんです。
石破(佳) 法学演習は面白く楽しい授業でした。
伊藤 お2人とも同じ授業を取っていらっしゃったということですね。
石破(茂) そうですね。そういうことで三田に行った時、家内が図書館旧館の階段を、本か何かを抱えて降りてきたのを私は目撃したことがあって、私は強烈に覚えているのですが……。
伊藤 目撃されたほうは覚えていらっしゃらない(笑)。
石破(佳) 男子学生が多いですから、いちいち男子学生は覚えていなかったというのが正直なところです(笑)。
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伊藤 戦争からある期間が空き、日露戦争を経験した者もいなくなり、戦争というものの実感と体験を持つ人がいなくなったところで、また次の戦争という局面に入っていく。その時に政治家がどういう判断をするか、ということが問われていたと思います。そのあたりについては何か佳子さんはありますか。
石破(佳) 私の父親は戦争に行っていませんが、大勢の友人が行っていました。母からは疎開の体験などを聞かせてもらって育ちました。鳥取に行きましてからも、戦争を直接経験されていない方でも、戦後の困難な時に生まれたり、いろいろな体験をされている方が多かったので、様々なことを聞かせていただきました。
今、そのあたりの経験がまったくない世代の人たちが働き盛りです。企業、役所、メディアもそういう人たちが中心でいらっしゃる、そのことを政治家の妻としてとても不安に思っています。
伊藤 石破さんが責任の所在が明らかでない場合には、情緒的に勇ましい、非論理的な判断に導かれがちだとおっしゃっています。まさにそういう不安ということですね。
石破(佳) はい、その不安を持っています。戦後80年ということで、「NHKスペシャル」では、当時の新聞が真実でない情報を書いたことが、大衆の気持ちを煽ってしまった様子が報じられ、また「シミュレーション〜昭和16年夏の敗戦〜」も放映されました。当時、真実を知らない大衆、真実を受け入れられない政治家が悲惨な状態を引き起こしてしまった。
また、現在はネット環境というのがあります。主観的な思いがあっという間に配信されて、考える間もなくそれがメジャーになってしまうという恐ろしさをすごく感じています。福澤先生の時代よりもスピード感があり、大変かなと、ある意味で心配しております。
伊藤 そうですね。福澤先生の時代も、『民情一新』で書かれているように、郵便と蒸気船、それから電信ができて一気に情報が伝わる。当時もそのことが恐れられたそうです。
『三田評論』2025年11月号に欧州委員会委員長のフォン・デア・ライエンさんが三田演説館にいらっしゃった際のスピーチの翻訳が出ています。その中でフォン・デア・ライエンさんは、「福澤諭吉が生きた19世紀末は今の時代と通じるところが明瞭にある」とおっしゃっています。私たちの周りの不安定な世界情勢を見渡す中で、福澤諭吉の教えの中にこそ答えがあると確信している。それは「自由と独立」の追求だと。自由と独立の追求というのは、過去の時代の言葉だと捉えられることがあるけれど、私は熟慮の上でこれらの言葉を使っているのだとおっしゃっています。
今、その「自由と独立」という言葉は、昔に戻るための言葉ではなく、今の現実の世界に向き合うための言葉になる。そして厳しい現実世界に向き合った時、今のこの嵐が過ぎれば──例えばこの地域の戦争が終わりさえすれば、この関税交渉が終わりさえすれば、次の選挙で何か方向が変われば──元に戻るわけではないと彼女は言っているのです。つまり地政学的な逆流があまりにも強過ぎる。だからこそ21世紀のための新しい「自由と独立」の形をつくるということが必要だと。独立というものは内向きのものではなく、広がりを持って仲間をつくっていくものだとおっしゃっていました。
このあたりは、恐らく石破さんがライフワークでお考えになっていることに通じるものがあるのではないかと思ったのですが、現代はこの19世紀末の福澤の時代に似ているかどうか、石破さんにもお伺いしたいのですが。
石破(茂) 似ているのでしょうね。今の時代を称して「新しい戦前」という人もいますね。おっしゃるように、日露戦争を知らない人たちが太平洋戦争を立案したわけです。頭でっかちというのか、秀才ではあるけれど、現実を知らない、あるいは想像力に欠ける人たちが理屈や精神論だけで太平洋戦争というものを企画立案した。そして、大日本帝国憲法というのは、わざと責任の所在がわからないような憲法になっているのですよね。
伊藤 そうおっしゃっていましたね。
石破(茂) 我々法律学科の人間でも、大日本帝国憲法についてはきちんと勉強してこなかった面がある。今回、よく勉強し直してみて、本来、責任の所在を曖昧にしている憲法だと感じました。理由はいろいろあるのでしょうが、それを埋めていたのが元老という存在だった。西園寺公望が亡くなって元老もいなくなると、責任の所在がますますわからなくなってきて、勇ましい声、大きな声が通るようになる。
「たまには清水の舞台から飛び降りることが人間は必要だ」とか、「戦うも亡国、戦わざるも亡国としても、戦わずして滅びるは日本人の魂まで滅ぼす真の亡国なり」などという勇ましくて、情緒的で、大きな声が通っていく。それで300万人以上が死んだわけですよね。その検証をしないと同じことが起こりますよ、と。
もう1つ、ここ20年ほど考えているのは、やはり日本の国というのは、インディペンデントで、サステナブルな国であるべきだと思う。逆に言えば、今の日本国はインディペンデントでもないし、サステナブルでもない。
伊藤 独立していないし、持続可能性も低いと。
石破(茂) そう思います。食糧もエネルギーも人口構成もそうです。自衛力だって、はっきり言ってしまえばそうですね。もちろん日米同盟は大切です。日中の信頼関係も大切です。しかし、その前提として、インディペンデントな日本とは何かということを突き詰めて考えたことがない、というのは恐いことだと思う。福澤先生がおっしゃるところの「独立自尊」というのは何なんだというのは、常に塾員、あるいは塾に学ぶ者が問いかけねばならんことなのでしょうね。
伊藤 そうですね。尊厳、そして独立、この2つがやはり、自由も含めて1つの柱になるわけです。
昨年3月の卒業式の卒業生の答辞は法学部法律学科の塾生でしたがこのような話をされていました。慶應では本当にいろいろな授業が揃っていて、好きな授業を楽しんで取らせてもらえた。1年生の時のある授業をきっかけに、自分はすべての国の国歌を歌うことを目標に据えて、150くらい歌えるようになった。その時、様々な国の国歌の中で一番出てくる単語を調べたのですが、それは何だと思いますかと、我々に問いかけたのです。それは「王様」ですか、「神」ですか、「独立」ですかと。
この答えは「自由」だということです。この「自由」というものは、それほど大切な、そして勝ち得ていくもの、守るべきものであると。日本においても、例えば袴田事件の例があったり、また、優生保護法によって子供を持つ自由が奪われた人もいると、彼は法律的な側面から、日本でもまだ自由が奪われている人がいるという話をした。だからこれからも私たちはやはり慶應義塾の精神で「自由」というものを尊んでいこうと言っていました。先ほどの石破さんの話を伺っても、やはり「正しく自由を教える」ということは、とても大切なのだと感じます。
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伊藤 わかりました。そのようにして同じ場所で学ばれ、いろいろなご縁の下でご一緒になられたわけですね。そして政治家として石破茂さんが進まれる中で、ずっとここまで一緒に歩んでこられたわけです。
私は「戦後80年所感」(内閣総理大臣所感 戦後80年に寄せて[2025年10月10日])にいたく感動している一人でして、ホームページに出ている文章の内容も、記者会見もすべて拝見しました。この所感から私が受けたメッセージは「無知であることを恐れろ」ということかと思っています。過去を振り返ってそれに対して謝罪をするということではなく、そこで何が起こっていたのかを徹底的に知る、という姿勢。知れば知るほど知らないことに気づくということを、総理としておっしゃっていたと思います。
この所感に関しては石破茂さんに伺うとともに、佳子さんにも同じような質問をさせていただきたいのですが、「80年所感」についてはどのように感じられておりますか?
石破(佳) はい。では、私が知っている範囲でお話をさせていただきます。夫は一貫して日本の戦後のことについて考えてきました。長年かけて、この戦争になぜ至ってしまったのかについての理解というのをライフワークとしてきたのだと思います。
2024年に総理という立場になりまして、昨年が奇しくもちょうど戦後80年にあたりました。私が聞いている範囲ですが、父親である石破二朗はほとんど戦争のことは語らなかったようです。しかし、石破二朗の過ごしてきた人生、そしてまた考え方も大きく影響しているのではないかと感じています。
所感は最終的に何をどういう表現で出すのが今後の日本にとっていいのか。その中に問題提起のようなことも入れたいと考え、すごく葛藤があったのだと思います。
一方で、「発表するな」という声がありましたが、「使命としてこれを果たしたい」という気持ちがあったと思います。発表する時期も相当考えていたようです。
伊藤 今の奥様のお話をお聞きになっていかがですか。
石破(茂) 私は昭和32年生まれですけれど、生まれた時、父親は建設省の事務次官を務めていました。歳は49歳離れていたこともあり、私にとって父は、建設次官から鳥取県知事になった人、参議院議員で、自治大臣という人であって、何か親子という感じはあまりしなかったのです。ですから逆に一種、客観的に見ている部分もありました。
私が会社に入って3年目の昭和56年9月、父が亡くなりました。旧内務省の伝統と聞きましたが、先輩が亡くなった時は後輩たちが思い出の文章を寄せて、追悼集を出すのですね。そこに父親のいろいろなエピソードを、建設省や鳥取県庁や参議院などで一緒に働いた方々が書いてくださっていて、私は父のことを相当その追悼集で知ったのです。
例えば、父が内務官僚として宮城県に出向して社会教育課長を務めていた時、ちょうど日独伊三国同盟が結ばれ、ヒトラー・ユーゲントが来日することとなり、宮城県で歓迎会が行われるにあたり、責任者となった。部下たちが一生懸命起案して、ここでパーティをやって、ここで舞踏会をやってといった案を持ってきた。責任者たるうちの父親は実に機嫌が悪く、部下が何を持っていっても「知らん」と言ったそうです。
それでも最後に決裁しなければならなくなって、まだ30代前半だった父は部下に、「お前たち、よく聞け。こんな奴らと仲よくして、いいことなんか何一つない」と言いながら、しぶしぶ決裁したのだそうです。そういうことが追悼文に書いてあった。
そして戦争が終わり、スマトラから引き揚げてきて建設省に入り、やがて次官になった。その頃、公文書の冒頭に「終戦後ここに〇年」と書くのがしきたりだったそうです。「終戦後ここに〇年、何々道路の開通に当たり建設大臣として」といった感じですね。大臣の祝辞なんかも、文書課長が起案文を持ってくるわけですが、その冒頭にもそれが記されていた。
すると次官である父が、「課長、『終戦後』というのはどういう意味かね。日本は戦争に負けたのになぜ『敗戦後』と書かないんだ。終戦という天然事象が起こったような書き方をするな」と言ってすごく怒ったのだそうです。内務官僚というのは、かなりリベラルな人が多かったのかもしれませんね。
伊藤 そういったことを追悼文集の中からお読みになったわけですね。
石破(茂) そうです。だから、父親像というのは、死んでからわかったような気がします。
父親はもうとにかく田中角栄先生に友人として心酔していました。「田中のためなら死んでもいい」と、本当に言っていました。角栄先生が生前よく、「あの戦争に行った奴が、日本の中心にいる間は日本は大丈夫だ。日本の中心からいなくなった時が恐いんだ。だからよく勉強しろ」とおっしゃっていました。
伊藤 その話を聞くと、ため息が出ますね。
石破(茂) 一番若く15歳で昭和20年に従軍した人が今、95歳ですか。だから、存命の方もいらっしゃると思うけど社会の中心からは退かれている。その時に、そういう父親を持った私が総理大臣を務めているというそのこと自体が、どうしても自分が「戦後80年所感」を書きたいと思った理由です。
伊藤 ただ、この所感を拝見すると、法律学科のゼミで鍛えられたスタイルが残っているような気もします。最初に非常にスタンダードなまとめがあります。また、記者会見では日本の中のことばかりを言っていて、外国に対する姿勢を言っていないじゃないかというような、いわゆるスタンダードな指摘もありました。でも、その中でやはりご自分のお考えをしっかりと、気をつけるべきことを述べていらっしゃるのが、私には非常に印象的でした。
佳子さんは、この所感の記者会見、また、この内容で特に印象に残っていることはありますか。
石破(佳) すごく悩んだ姿が印象に残っています。反論する人たちは必ずいますので、夫の伝えたいことは言えたなと、内輪としては「よかった」と感じています。
伊藤 そうですか。非常に直球なメッセージで、あの戦争は基本的には負けの可能性が高いということは、いろいろな機関の予測でわかっている中、「国内の政治システムはなぜ歯止めたりえなかったのか」ということを最初に問われる。今までの「70年談話」などの歴史認識は継承しながらも、自分に対する、また我々に対する問いとして、「なぜ歯止めたりえなかったのか」ということを将来への糧となるよう大きな問いとして掲げられたと思うのです。
石破(茂) 保阪正康先生、半藤一利先生、あるいは猪瀬直樹先生、井上寿一先生など、学者、歴史家といった方々が「なぜ歯止めたりえなかったのか」について書いておられる。ただ、政治家がこれについて考察しなければ駄目だ、という意識がありました。
伊藤 そこは大事なポイントですね。
石破(茂) 50年談話が村山(富市)総理、60年談話が小泉(純一郎)総理、70年は安倍(晋三)総理と続きました。今回の80年談話に反対だとする方々は「安倍談話で完結している」とおっしゃっていた。だけど、まさに安倍さんの談話にこそ、日本の政治システムは戦争の「歯止めたりえませんでした」と書いてある。そこを掘り下げて、なぜ歯止めたりえなかったのか、を書くべきだと思いました。
アジアをはじめとする世界に対するお詫びは、もう70年で終わっている、という認識の上で、それは「継承する」と申しました。そこから「なぜ歯止めたりえなかったのか」をきちんと総括した上で、「では今の日本においては歯止めたりえているか?」ということを問いたかったのですね。
政府、議会、メディアの3つにおいて、政府はなぜ機能しなかったのか。議会はなぜ機能しなかったのか。メディアはなぜ機能しなかったのか。では、今なら本当に機能しますかと。根源は「文民統制って何ですか」という、ギリシャ、ローマからずっと問いかけられてきた問いに対する答えを、少しでも書きたかったのです。
伊藤 「あくまでも文民統制も制度であり、適切に運用することがなければその意味はなしません」とおっしゃっていますね。
石破(茂) そうです。この所感を書く時は、秘書官全員で何度も議論したのですよ。政務が2人、あとは財務、経産、厚労、外務、警察、防衛の各省から6人、皆「なんか大学時代のゼミみたいだね」なんて言いながら、侃々諤々の議論をしたのは楽しかったですね。各省からの秘書官は、次官になることが嘱望されているような飛び切り優秀な人材で、今は皆それぞれの役所に帰って審議官などになっていますが、あの侃々諤々の議論は全員にとって共通の思い出だろうと思います。
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伊藤 この新春対談は、「これから私たちがどのように次世代に何を託していくのか」ということがテーマになるわけですが、私たち慶應義塾に対する要望など何でも結構ですが、どういうことがありますか。
石破(茂) 慶應高校に入る時、外から受験する者は必ず『福翁自伝』を読めと言われて、よくわからないなと思いながら読みました。『学問のすゝめ』も読んだのです。面接で聞かれるので、知らないと大変なことになりますからね。この歳になって、もう一度我々は、『福翁自伝』や『学問のすゝめ』とか、ああいうものを読み直さんといかん、と思います。
福澤先生のみならず、『海軍主計大尉 小泉信吉』を小泉信三先生が書いていらっしゃいますが、学徒出陣で特攻隊として出撃する前夜に「今日、一人の自由主義者が死んでいきます」と書いた上原良司も慶應でしたね。よくあんなことが書けたと思います。
伊藤 そうですね。あの文章は本当にレベルが高い。
石破(茂) まさしく慶應義塾だと思いましたね。また『自由と規律』の池田潔先生も慶應ではなかったですか。
伊藤 そうですね。
石破(茂) やはり慶應の先人たちが自由というものをどう考え、国家というものをどう考えていたかということは、同じ慶應義塾社中の者として、まだまだ学びたいと思いますね。
伊藤 佳子さんは「慶應義塾に望むこと」はいかがですか。
石破(佳) 私は大学から慶應に入りました。そこで福澤先生の教えも勉強させていただき、自分なりに、やはり自分の行動は自分で判断して責任を持つといった基本的なことは心がけてきました。今、「自由と独立」というお話をされていましたが、慶應で学ぶということは、小学校から来られる方、中学、高校、大学、そしてまた大学院から入られる方があります。特に大学院から来られる方は、目的がはっきりされているのだと思います。
その中で、これからの教育について私が望んでいきたいと思っているのは、私たちの子供たちにも本を多く読ませてきましたが、まずは本を読んでもらう教育。もう1つは、いろいろな考え方の人の話を聞かせていただきたいと思います。私の高校では外部からいろいろな方が講演に来られて、学校の勉強とは違う話、時には自分の考えとは真反対の話を聞かせてもらう経験をさせていただいたことが、とても勉強になりました。そういう機会をどんどん与えていただき、慶應義塾らしい先端の教育をしていただけたらと思います。
そして、大いに留学をさせてほしいです。今は2つの学校の学位が取れるようなものもあると伺っていますので。
伊藤 ダブルディグリーですね。
石破(佳) 素晴らしいですね。私たちのように、女性の就職が限られていた時代と違って、これからの日本は、ますます女性の活躍が必要になってまいります。そういう中で、様々なことを切り拓いていけるための教育を期待しています。
一例を挙げさせていただきます。私が夫の公務に付いてフィリピンに行かせていただいた時、義足の会社を見学しました。フィリピンは糖尿病の人が多く、世界初の3Dプリンタを使った義足を開発し、安価で提供している会社です。経営者は日本人で、かつて日本でものづくりをしていましたが、人の役に立つ仕事をしたいとJICAでフィリピンに行き、ここの人たちの役に立ちたいと思い、帰国後、慶應義塾の大学院で学びました。その後、会社を設立し、現在たくさんの方を救っています。そういう方にお目にかかりました。やはり義塾は素晴らしい教育をしていただいていると思っています。
伊藤 私は昨年11月に同志社大学の150周年記念式典に招待されました。同志社創立者の新島襄は20歳近くで日本の法律を破ってアメリカに渡り、そこで高校に入り直して大学に進みます。要は30歳を超えるまでずっと自分探しをしていたようなものです。それから日本に帰り、京都で山本覚馬と意気投合して同志社を始める。人生短い中において、相当の期間、学びと自分がやるべきことは何かを探している。
福澤諭吉も実はそうだと思うのです。随分長い時間、人生の半分くらいは自分探しをしている。それに対して、今人生100年の時代であるのに、あまりにも皆焦り過ぎているのではないかと思います。150年前と比べ、人間はそれほど進化していないので、そんなに効率よく学ぶこともできないし、自分がやるべきことをすぐに発見することもできない。実は石破さんも、恐らく一緒にずっと過ごされている佳子さんも日々の仕事をされながらも「何をするべきか」という志を常に高めてこられたのではないか、という印象を持っているのですが、そのあたりはいかがでしょうか。
石破(茂) 私も大臣などを務めるようになってから、慶應の新入生歓迎講演会みたいなものに時々呼ばれて「新入生に望むこと」みたいな偉そうな題をもらって話すのですが、この学校って、何でも勉強できるのですね。
最高レベルの学問に接することができるということは素晴らしいことです。一方で慶應に入ったことを1つのステータスだなんて思ったら、そこで成長は止まってしまう。やはり慶應の本質というのは、最高レベルの学問に接する──「学ぶ」とは言いません、接することができるということだと思うのです。
伊藤 機会を使い倒すということですね。
石破(茂) そうです。そうしないともったいないよね、という感じなのです。だから「自由と規律」とか、「自由と責任」とか、それは「独立自尊」とつながるものだろうけれど、それって何なんだろうというのは、私は永遠のテーマの1つなのだろうと思っています。
伊藤 「生涯学び続ける」ということですね。そこで福澤の教えは間違いなく必要だろうと。
石破(茂) そうだと思います。生涯学び続けることは大事です。国会議員は国会図書館を自由に使えるのですが、塾員も慶應の図書館は、お金を払うと使えますよね(編集部注:塾員入館券などで利用できる)。
生涯学び続けられるのも、慶應のすごいところだなと思います。勉強すればするほど「なんて自分はものを知らないんだ」ということに打ちのめされるところがあって、でもそこでくじけてはいかんのだと思います。世の中に知らなければいけないことが1000あるとしたら、多分自分が知ってることは100もないなと思うからこそ、日々学びなのだと。