”主権潔癖症” が招き寄せる第三次世界大戦の足音
周知のとおり、6/13にイスラエルがイランを空爆し、交戦状態に入った。ウクライナ戦争と同様に当初、トランプの米国は両者に停戦を求めたが奏功せず、参戦の可能性さえ報じられ始めている。
トランプ氏は〔SNSへの〕投稿で、ウクライナとロシア間、およびイスラエルとハマス間の停戦交渉を、アメリカが支援してきたと説明。「同様に、もうすぐ平和を手にする。イスラエルとイランの間でだ!」と書いた。
6/16時点の報道(強調を付与)
専門家でなくてもわかるが、イスラエルのネタニヤフ首相の論理は、ロシアのプーチン大統領に酷似している。というか、もはや意図的なミラーリングを疑うレベルで、少なくとも、
6/15のTBSより
① ウクライナのNATO加盟やイランの核開発を、安全保障上の差し迫った脅威とみなし、だから先制攻撃は正当だと主張している。
② ウクライナ民族主義やイスラム原理主義を掲げた革命を引き継ぐ現政権を、不法なテロ組織とみなし、体制の転覆を呼びかけている。
③ 橋渡しを申し出る国があっても、事実上「あなたは敵国に操られている」と仲介を拒絶して、聞く耳を持たない。
が、両者に共通だ。
2022年には、プーチンの①~③の論理が国際秩序を破壊するとして、「うおおロシアに経済制裁、ウクライナに武器支援を!」と説く人がTVにいっぱい出てきた。多くは国際政治学者の肩書だった。
いま同じ人が、ネタニヤフの①~③にも「イスラエルを経済封鎖、イランに武器輸出だ! イラン製品を ”買って応援” うおおお私ってインフルエンサー!」と唱えるなら一貫するのだが、その例はほぼ見ない。ここ数年の風潮は、よくある西側ダブスタの一種で、つまりニセモノだった。
なぜ、そんなことになるのか。原因は、国家主権の捉え方がナイーブ(幼稚)だったことに尽きると、ぼくは考える。
主権とは、ざっくり言えば「ある国(の政府)がどんな行動をとるかは、その国だけが決定できる。他の国の指図は受けない」という原理のことだ。ある国が「これをしたい」と言うのを、よその国が「するな。やったら戦争だぞ!」と脅したら、主権の侵害であり内政干渉だと抗議される。
この理屈は、西側が「ウクライナのNATO加盟阻止」を謳うプーチンを批判するのには役立った。しかしイスラエル・イラン紛争の調停には、なんの役にも立たない。イランが核武装するのだって「その国の主権なんじゃないんすかぁ?」と言われたら、それまでだ。
ましてイスラエルは、非公然の形で前から核兵器を持っている。最もオイシイ形で「核抑止」の実益だけを得ている国が、他の国に「お前らが持つのはルール違反」と言い出したらオカシイことは、あなたがシオニストか、イスラムフォビアか、名誉白人でなければわかる。
言い換えると、国家主権というのは別に無謬の原理じゃなくて、ぼくらは常々、互いに相手の主権を「侵害しあいながら」生きている。文字どおりに主権の原理を徹底して、どの国でも核開発し放題になったらマズいから、まぁその点に関しては、100%の主権は諦めましょうというわけ。
憲法に「戦争の放棄」を定める条項があるのも、平和主義なる絶対の真理が天から降臨してそうなるのではなくて、軍備も開戦もその国の主権だけれども、振り回すとダメージが大きいから「お互いに主権を制限しましょう」という趣旨で、書きこまれることが多い。
ただし戦後日本の憲法は、色んな事情でそうならなかった。結果として、バンザイ突撃のように戦力ゼロで驀進するのが護憲だと錯覚される裏面で、対抗する側も、うおおおお改憲して主権を取り戻す! みたいな主権原理主義に陥ってきた。
原理主義とは、潔癖症みたいなものである。90%くらいの主権はあるのだから、「核開発はしない」とかで10%の目減りは認めていいかな、と鷹揚になれず、うおおおおお完全な主権じゃない! と憤り続けると、北朝鮮みたいな国になってしまう。
いわば ”主権潔癖症” だけど、そう捉えるとウクライナ戦争でそれが流行した理由もまた、明白になる。直前までの新型コロナウィルス禍で、比喩でない潔癖症を患わされた人が多かったからだ。
病気としての潔癖症とは、”健康原理主義” のことだ。外出してウィルスを吸い込むリスクを、文字どおりゼロにする「完全な健康」を追求したら、逆に生きていけない。ところがコロナでは、全員がテレワークで働きドローンで配達してもらえば……みたいな、突拍子もない空想が語られた。
同じノリで海外の戦争を迎えると、無償供与で超強力兵器がどかどか届き、無限の愛国心でエンドレスに反転攻勢をかければ、ウクライナの「完全な主権」を守れるといった幻想も流布する。ネタニヤフの暴走は、そんなファンタジーの終わりを、ようやく自明にしただけだ。
6/20発売の『Wedge』7月号の特集は、戦後80年を踏まえた「沖縄問題」。ぼくの博士論文を読んでくれた編集部からの依頼で、総論にあたる部分を寄稿した。そこでも、同じ話から始めている。
軍事基地と医療には似た性格がある。どちらも平和な暮らしに不可欠だが、あまりに必要性を強調しすぎると、逆に命を傷つけてしまう。
潔癖症のように手洗いに没頭したら、皮膚が破けて血が出てくるし、カロリーの表示ばかりを始終気にすると、メンタルを壊して摂食障害になる。「健康」には、意識せずにいると失われるが、しすぎてもかえって自らを損なう、厄介なジレンマがある。
実は「国家主権」も、同じ特徴を持っている。領土紛争は「主権潔癖症」みたいなもので、わずかでも自国の主権が損なわれるリスクはイヤだと、各国が過敏になることで生じる。相手国へのアレルギーを互いに亢進させれば、時に戦争になる。
14頁
けっして他の原稿を手抜きで書いてるわけじゃないけど、2009年のデビュー作から最新刊の『江藤淳と加藤典洋』まで、自分のキャリアを集大成して論説にまとめる機会は、そうない。旧ソ連だけでなく、中東でも「同じ問題」が火を噴いたいま、ひとりでも多くの人に手に取ってほしい。
そして、実はこの記事は『Wedge』誌で、新たに始める連載の初回にもなっている。どんなコンセプトかも、見て確かめてくれたら嬉しい。
もう何度も書いてきたが、コロナで掛け間違えたボタンを元に戻さなければ、ぼくたちは健康になれず、世界は平和にならない。ボタンが「ずれたままで別にいいんだ」と嘯きながらごまかしを続ければ、いつか服の端が来て破局に至る。そのときは迫りつつある。
(ヘッダーは6/16のBBCより、NYでの抗議活動)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年6月20日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。