【追悼・美輪明宏さん】エナメルの靴も衣装もボロボロだった 「顧みられることのなかった人たちへ」貫いた信念 「ヨイトマケの唄」に込めた想い
「ヨイトマケの唄」のヒット曲や「黒蜥蜴」の舞台、テレビなどでの幅広い活躍で知られた、シャンソン歌手で俳優の美輪明宏(みわ・あきひろ、本名・丸山明宏=まるやま・あきひろ)さんが6月20日、老衰のため91歳で亡くなった。
【写真多数】「歌の上手い美少年」時代から銀巴里での圧巻のステージ、瀬戸内寂聴さんとの対談まで
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世界を生き抜く武器は「愛の言葉」
祭壇に飾られた黄色いバラは、美輪明宏さんが好きだった花。ファンからの手紙は柩に納められたという。
〈約三ヶ月前に体調を崩してからは、自宅で静養しておりました。最後は「ありがとう」と一言感謝の言葉を伝え、静かに目を閉じました〉
6月28日、所属事務所は、公式ウェブサイトに美輪さん死去を発表し、その最後についてこうつづった。通夜、告別式は本人の意向で近親者だけで既に行われ、お別れの会やしのぶ会の予定はないというが、事務所は美輪さんの直筆のメッセージを写真とともに掲載した。
「こんな世の中を生き抜く武器は愛の言葉しかありません この世のすべての問題を解く鍵は愛です 愛があれば戦争なんか起こりません 美輪明宏」
本人が常々口にしていた言葉だという。
美輪さんは、戦後70年の節目であった2015年に「週刊朝日」(7月24日号)のインタビューに応じ、こう語っていた。
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戦争を経験、時代の目撃者として
私は、時代の目撃者だと思っています。日本は長い間まとってきた軍国主義の衣装を、1945年の8月15日を境に、民主主義へと衣替えをします。私たちはいまだ着こなせずにいる。それでも、しわの寄った襟や裾を引っ張りながら、何とか歩いてきました。立派だと思いますよ。
ただ、悲しいかな。文化は失われかけている。戦後、建築家は、照明室や音響室から舞台が見えないといった不完全な箱モノを全国に建てました。そしていま、青山劇場などの閉館に見るように、日本中から舞台やホールが消え始めた。文化盛衰の歴史。それが戦後70年という歳月です。
振り返れば、日本は劇場すらない時代が続いた。日活や東映の大スターや流行歌手でさえ、映画館や桟敷席の残る芝居小屋や学校の講堂で歌ったものです。
芸能が輝きを持ったのは、大正の終わりから昭和初期にかけて。退廃美とシュールな感覚が開花したエログロナンセンスの時代です。東京では「浅草オペラ」が上演され、日本初のジャズ歌手となる二村定一さんや、喜劇王の榎本健一さんらスターが生まれた。
「銀巴里」最後の公演の合間、涙をぬぐう美輪明宏さん=1990年12月29日Page 2
戦争が始まると、甘美な空気は一変。軍歌、軍国歌謡が流行歌に取って代わりました。質素倹約が美徳とされ、化粧やおしゃれをすれば非国民だとなじられた。
「ブルースの女王」と呼ばれた淡谷のり子さんは、そうしたなか何度も戦地へ慰問に行った、とご本人から伺っています。兵隊さんの前で、「別れのブルース」や「雨のブルース」を歌うと、軍の上官に、「退廃的な歌はダメだ。淫売みたいなドレスはなんだ」となじられ、モンペに着替えろと命じられる。それでも淡谷さんはドレスを脱がず、「殺されてもかまいません。死にゆく若者が最後に見る日本女性の姿が、モンペなんて情けないじゃありませんか」と答えたそうです。
歌を背に特攻へ出撃する若者
歌声が響くなか、特攻で出撃する若い兵士がひとり、またひとりと席を立つ。唇を、「ありがとうございました。行って参ります」と動かし、敬礼して消えていく。舞台で、彼女は何度も、後ろを向いて泣いた。そして、歌い続けたのです。
東海林太郎さんといえば、直立不動の歌手ですが、当時は、それが美徳とされ、動けなかっただけです。女性の歌手は、ハンカチで汗をふき、男性は楽団の指揮をするまねをして、間奏の時間をもたせました。
芸術が、文化が、抹殺されようとした時代でした。私の三味線のお師匠は、特高警察に「なぜ銃を持たないのか」と、三味線をたたき折られたそうです。英語は「敵性語」、英米音楽は「敵性音楽」だと禁止された。バイオリンではなく、「ひょうたん型糸こすり器」と呼べという。笑いバナシにもなりませんよ。
新東宝「風流滑稽譚・仙人部落」(曲谷守平監督、原作は小島功氏の週刊誌連載漫画)で新東宝初出演=1961年1月14日=日刊スポーツ立川や座間のキャンプへ
私が10歳のときに、終戦を迎えました。東京の国立音大付属高校に進学したものの、経済的な事情で中退。銀座の喫茶店や進駐軍のキャンプでアルバイトをするようになった。そのころは、新宿駅の構内にも焼け出された人や戦災孤児が住んでいました。駅の西口に手配師が来て、サックス吹ける人? ピアノ弾ける人? 歌える人?と、人を集める。幸い、私は子どものころに教会で、英語を教わっていた。「英語の歌ができます」と、手をあげて、踊り子さんやバンドと一緒に、即席チームのできあがり。トラックやバスで立川や座間のキャンプに運ばれた。そして、この場所が私の人生を変えることになったのです。
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立川のキャンプで舞台の出番を待っていると、米国人の支配人が来て、「You stop」と。なぜかと聞くと、衣装がプアだ。ショーは見せるものだと言うんです。確かに、エナメルの靴も衣装もボロボロ。日本が貧しい時代ですから、新しい衣装など買えません。悔しいですよ。でもその経験が、のちのビジュアル系につながりました。
「オズの魔法使」で有名なジュディ・ガーランドがお忍びで慰問に来たことがありました。私のファンの米軍将校と一緒に、将校クラブに行くと、ジュディは歌って踊って冗談を言って、客席中が盛り上がっている。彼女のステージを見て初めて、「ショー」の意味がわかった。私は銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で、それをやり始めたんです。
江戸川乱歩、三島由紀夫、大江健三郎らと交流
軍国主義の抑圧から解放された日本の文化は、少しずつ息を吹きかえします。日本中にダンスホールができた。昼は喫茶店で、夜にはキャバレー。生バンドの演奏で若者もお年寄りも踊りました。タンゴにハバネラ、ワルツが入ってルンバが来て、サンバもマンボもありました。当時の音楽には、多種多様なメロディーとリズムがあった。
銀巴里は、文化人の集いの場所でもありました。十七代目中村勘三郎さんが「歌のうまい美少年がいる」って、江戸川乱歩さんを連れていらした。彼の小説は子どものころから読んでいたから、すぐにお友達になりました。すると、新進作家として売り出していた三島由紀夫さんが来て、次に川端康成さんを。東大の学生だった大江健三郎さんは詰め襟を着ていらしたし、当時高校生だった劇作家の寺山修司さんにもお会いした。芸術家の岡本太郎さんは、飛び入りで、流暢な仏語で歌をお歌いになったりと、きらびやかな日々でした。
炭塵塗れの客へ捧ぐ労働者の歌
「ヨイトマケの唄」へと導かれたのは、そうしたときです。手配師の手違いで炭鉱の町で興行をすることになった。
会場の公民館に行くと、爪や皮膚のシワまで炭塵だらけのお客さんがゴザに座っていました。貧しい生活のなかから、お金を払って歌を聴いてくれている。でも、日本では彼らのための歌は、「炭坑節」といったものしかない。
それならば、自分が労働者のための歌を作ろうと、「ヨイトマケの唄」を始めとする一連の歌が完成したのです。従軍慰安婦の女性たちから聞いた悲惨な話は、「祖国と女達」として歌いました。
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顧みられることのなかった人たちへ、歌を捧げたいと思った。誰もやらないことに挑戦する。芸能生活64年目になるいまも、この姿勢は変わりません。
そのためか、「美輪さんは、芸能界にいながら芸能界とは違った場所に立っている」と言われることも多いですね。
最初にお話ししたように、いまの日本は文化や芸術を享受する心を失いつつあります。暴力や犯罪を是とするような音楽や歌詞が、海外から入り、巷にあふれています。ダブダブのズボンをお尻まで下げるヒップホップ系のファッションは、ベルトを外した囚人服からきたものです。
何より、若者は音楽を聴こうとしません。歌はメロディーを失い、文学性に欠けた、ツイッター・ソングが氾濫しています。「のっているぜ」と観客総立ちになるコンサートは、「祭り」に参加しているだけです。
反戦や平和について語る瀬戸内寂聴さん(左)と美輪明宏さん=長崎市(2015年07月25日)芝居の世界も同じです。照明ひとつ見ても、お客さんの想像力を刺激して、舞台の世界に案内をするようなロマンの仕掛けができる人材はごくわずか。せめて私は、お客さんを非日常に誘おう、という想いで舞台を続けています。
それでも、私は戦後70年を経た日本に希望も感じています。原宿から発信された「カワイイ文化」は、海外から注目され、レディー・ガガも原宿で洋服を買い占めるほどです。
権力による抑圧と忘却の時代を乗り越えて、いままさに新しい若者文化が発信されようとしています。
(聞き手 本誌・永井貴子)
名誉都民に選ばれた美輪明宏さん=東京都庁(2018年10月1日)美輪明宏(みわ・あきひろ)/1935年、長崎県生まれ。シンガー・ソングライター。
10歳のときに、爆心地より約4キロ離れた長崎市の自宅で被爆したが、けがはなかった。美輪さんの歌には、原爆や反戦をテーマにしたものも少なくなく、コンサートやインタビューなどで長崎での記憶とともに平和への思いを語っている。
国立音大付属高校を中退したのち、プロの歌手となり、シャンソン喫茶「銀巴里」などに出演。1957年には「メケ・メケ」で知名度を上げる。シンガーソングライターのさきがけであり、65年には自ら作詞作曲をした「ヨイトマケの唄」で労働者への敬意と母への愛情を歌い上げ、反響を呼んだ。また、劇作家の寺山修司が率いた劇団「天井桟敷」で「毛皮のマリー」に主演。三島由紀夫が戯曲化した「黒蜥蜴」などで主演し、多くの舞台に立った。
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