ウクライナ戦争は「もうひとつの戦後日本」だったのか
憲法記念日にはあらゆるメディアが、1日限定の「護憲・改憲」操業に入るわけだが、読むべき中身はほぼない。その理由もはっきりしている。
「平和憲法を守れ」という知識人は、平和憲法を守ろうと思っている読者が必ず読む『世界』という雑誌にみんな書いている。憲法を改正すべきだとする読売の雑誌とは棲み分けて。憲法を守りたいと思っている人に、「憲法を守れ」と説くなんてある意味では無用なことのようにも思える。
『情況』1995年10月号、121頁 (強調は引用者)
前回の記事で採り上げた、戦後50年に際しての坂野潤治氏(日本政治史)のインタビューにある言葉だ。そこから30年のあいだには、ネットやSNSや動画配信がこの構図を変えるのではと期待もされたけど、結局ダメだった。
とはいえ、海外でリアルな戦争が続くいまこそ、「平和憲法」の下で歩んできた戦後日本とはなんだったのか、考え直す意義は小さくない。新刊の発売にむけ読み直していた、加藤典洋さんの遺作に、その手がかりを見つけた。
単行本としては生前最後の刊行(2019年4月)になった『9条入門』に、こんな一節がある。「全面講和か単独講和か」とは、戦後史で一度は耳にしてすぐ忘れる用語だけど、こうまとめられると少し不意を打たれる。
そこで国民の前に示されたのが、1951年、前年に勃発した朝鮮戦争がまだ終わらず、東西冷戦が厳しさを増すなかで、アメリカとの結びつきを占領の終了後も堅持して、アメリカに守ってもらうか(「単独講和」または「片面講和」と呼ばれます)、アメリカとのつながりをゆるやかなものにして、米ソ両陣営に安全を保障してもらう中立のあり方を追求するか(「全面講和」と呼ばれます)、という二つの選択肢でした。
34頁
このように解釈されると、冷戦終焉後のウクライナをめぐるブダペスト覚書(1994年12月)というのも、ある種の「全面講和」だったことに気づく。ウクライナが旧ソ連時代の核兵器を放棄するかわり、同国の安全を米英ロの3か国が保障したもので、当時はそれなりにリアリティがあった。
1991年頭の湾岸戦争では、米ソの連携により国連が初めて機能したと言われたし、同年夏にはワルシャワ条約機構が解散した。東欧に幅広い「中立地帯」が実際に成立した状況で、ウクライナがその一部になろうと望んだのは不自然ではない。
NATOの東方拡大は99年が初で、ポーランドなど3か国のみだったから、それ以前の段階で「米ロの共同とは信用できない。明確にアメリカとだけ同盟すべし!」とする単独講和を唱えたら、かなり変な人に見えただろう。つまり冷戦後のウクライナは、「裏返しの戦後日本」として始まった。
冷戦の真っ只中かつ兵站基地だった独立日本と、それが終わった後の新生ウクライナ。どちらが「軍事同盟ではなく、中立政策で行けますかね」と訊かれたら、誰もが後者と答えたはずだ。それがどうして、反対になったのか。
老いたジョージ・ケナンが「ロシア敵視だと取られる」として、NATOの東方拡大に反対したことは、ウクライナ戦争の勃発後に改めて注目された。そもそもケナンは、マッカーサーの王国状態だった占領下の日本に初めて口を挟んだ人でもあったけど、加藤さんは彼の思想をこう描写する。
ケナンのソ連「封じ込め」政策も、日本語の訳語だと「強圧的」な感じを受けますが、『アメリカ外交50年』の訳者有賀貞が指摘するように、もとのコンテイン(contain)という言葉には「中に入れておく」「せきとめておく」という非攻撃的な意味あいがあります。……
危険物を容器(コンテナ)に収容しておく、というどちらかというと保安的配慮がまさっており、そこに攻撃的なニュアンスはありません。
『9条入門』256-7頁 (段落を改変)
冷戦下の米ソはもちろん、自由主義と共産主義というイデオロギーのレベルで対立していたわけだけど、ケナンの戦略はあくまで、影響が漏れ出さないよう「互いに隔離して」過ごせばOKで、敵の撲滅は狙わなかったわけだ。
こうした目で振り返ると、朝鮮戦争下の日本で「全面講和論」の理論的支柱となった声明「三たび平和について」も、意外にケナンと重なることを言っていたことに気づく。当該部分の著者は、丸山眞男だとされている。
「二つの世界」の対立が今日きわめて深刻なものであることも事実なら、それが三十年以上にわたって現に並存し、しかもその両世界の最大の代表者〔米ソ〕が、第二次大戦においては同盟してファシズム国家の打倒に協力したというのも事実なのである。……
われわれは、世界政治を動かしている複雑な諸条件のなかから、米ソの対立の激化という傾向だけをとり出して、これを一方的に強調するような言論と思考からは、平和をより危殆ならしめる現実的効果しか生れないと考える故に、そうした一刀両断的な考え方にどこまでも反対するものである。
『丸山眞男セレクション』217-8頁 初出は『世界』1950年12月号
(並存・同盟の強調は原文ママ)
要は、こいつらとは妥協不可能で「勝つか負けるかだ!」とする発想をはじめから前提にしてしまうと、本当に妥協が不可能になり、どっちかが死ぬまで殴りあわざるを得なくなる、ということだ。その点では、一見空想的に見える全面講和論にも、「リアリズム」の要素があったわけである。
さて、冷戦の終焉という条件のもとに、(片面講和を選んだ日本と異なり)その「全面講和」から出発したウクライナの現状は、どうだろう。
開戦時こそ「民主主義と権威主義の戦い」とも呼ばれたが、冷戦下の自由主義と共産主義に比べれば、その2つは並存不可能なものではなかったろう。いったん「勝つまでやめない!」と啖呵を切った結果、「負けてもやめられない」のがどちらの側かも、いまや覆い難くなって久しい。
とはいえ、じゃあもう互いに妥協しあって「並存していきましょう」ということで、トランプとプーチンのディール(取引)で訪れるタイプの平和に、耐えがたい居心地の悪さのあることは拭えまい。なんの理想もないとも見える、両者のビジネスライクな勢力圏構想にも、同じことが言える。
もしかするとそれは、あのとき日米安保という「片面講和」を採った結果、奇跡のようにほんとうに平和が訪れ、憲法9条という「理想主義」に安住することができた日本とは、180度逆の正確な陰画であるのかもしれない。
先に引いた「三たび平和について」で、丸山眞男らが希望を託したのは、米ソの両体制がともにマイルドな福祉国家へと収斂する可能性だった。しかしポスト冷戦を経たいま、米国とロシアは「選挙のある権威主義」という斜め下の方向へと、悪い意味で収斂しつつあるようにすら見える。
どんな国の憲法典であれ、この世界の居心地の悪さを、文言をいじって解消することはできない。私たちにできるのは、タイミングのズレで戦争と平和がここまで分かたれる、歴史の残酷さを確認することでしかあり得ない。
両体制の実質的近似化ということが、現在の緊迫した情勢の下で、いかに空想的に見えようとも、将来の方向においてこれ以外の可能性は存しない。問題はただそれが平和的共存の途によってか、それとも戦争への途によってか、ということだけである。
そうして、前者が必ずしも人類の天国を約束しないとしても、後者が人類の地獄を意味することだけは確かである。
『丸山眞男セレクション』240頁
参考記事:
(ヘッダーはNHKアーカイブスより、皇居前広場の1950年メーデー。「全面講和の促進」の文字も空しく、翌月に朝鮮戦争が勃発する)
編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2025年5月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。