父親が勝手に陸上部に退部届 独学の砲丸投げで全国優勝 文武両道に「まねできないな」

高校時代に友人(左)と

《県立長崎西高に転校した草野さん。先生だけでなく、友人にも恵まれたという》

生徒もいい感じの人が多かったですね。

体力測定のソフトボール投げで86メートル投げたら、野球部のキャッチャーより2メートル勝ったとかで、「仲間にしておこう」と言われました。体力もあったのでラグビー部からも声がかかりました。中には勉強のできないのもいましたから、試験で答案用紙を机の隅に置いておくと、丸写しではなく、うまく間違えてくれる。こういう学校もあるんだなあ、と良さを感じました。

《だが、運動部には入らなかった》

私は中学で最初、野球部に入りました。私の通った学校は島原城の二の丸に運動場がありました。軟式なんですが、フリーバッティングで90メートル弱離れたお堀に何本か打ち込んだ。そうしたら1年生の新人戦で4番を打たされました。ところが力み過ぎて11打数3安打、いいところで打てませんでした。

2年生になったとき、「やはり走りたい」ということで、陸上部を作りました。100メートル走では、島原市内なら大体勝てるレベルでした。

島原高校でも陸上部に入り、100メートル走で11秒2を出しました。全国大会に出るには当時でも10秒台が必要でしたが、地方では割といい記録でしたから、少しずつ練習して伸ばしていこうと思っていました。

ところが突然、父親が「お前は勉強に身が入っていない」として、勝手に退部届を出してしまったんです。

部活動をやめたからといってすぐに勉強をするわけがないんですが。

そんなこともあり、長崎西高でも運動部に入ることはありませんでした。

《父は「文武両道」。まねできないな》

ただ、父の行動に納得せざるを得ないと思うところもありました。

父は田舎で庄屋の系統だったそうですが、その父親、私の祖父がグレていたため、家は貧しかったらしいです。隣の家がお金持ちで、小学1年生からその豪邸に毎朝掃除に行き、何銭かもらっていたと聞きました。

独学で砲丸投げを習得し、旧制福岡高校時代には全国大会で優勝したそうです。

そんな父から見ると、私の練習などあまいと思えたのでしょう。「お前は精神的に打たれ弱いからスポーツマンには向いていない」とダメ出しされてしまったわけです。

父は自分の健康は自分で守る、ということを若いときから実践していました。だから、ソ連に抑留されても生き延びられたのでしょう。

大学教授だったころ、夕飯後、おなかの皮をつまんで、「ちょっと肉がついてきたな。明日からご飯を1杯減らすか」などと普通にやっていました。

剣道もやっていまして、かなり高齢になってから七段の昇段試験に合格し、大学で剣道部を指導していました。私から見ると、勉強もきちんとやって、大したものだな、まねはできないな、と思わせる男でした。

《高校3年生になり、進路を考える時期になった》

担任の先生も、国語の先生も京都大学の出身でした。そこそこの成績を収めていたので、ことあるごとに「草野くん、行くんだったら京大だよ」「京都は本当にいい所だよ」と一生懸命〝勧誘〟してくれました。

ただ、2人の兄が東京大学の理系に進んでいたため、自分でも「京大だと負けた気がするな」と考えていました。(聞き手 慶田久幸)

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