中畑清「アイツは死んでもおかしくない…」長嶋茂雄監督が18人の巨人若手をシゴキ…“地獄の伊東キャンプ”伝説「猛ノックで泣いた」「カレーを吐いた」(Number Web)
「人里はなれた多摩川に 野球の地獄があろうとは 夢にも知らないシャバの人 知らなきゃおいらが教えましょ」 歌のタイトルは『多摩川ブルース』。V9時代に“赤い手袋”で一世を風靡した切り込み隊長、柴田勲が当時の流行歌の替え歌として作ったもので、「野球の地獄」に耐える巨人軍の二軍選手の間で脈々と歌い継がれていった。 柴田は当時をこう振り返る。 「雨が降っても平気で練習しましたね。ONが率先して練習に取り組むのだから、下の者が文句を言えるはずもない。巨人の伝統は猛練習の歴史なのかもしれません」 まだドラフト制度がなかった1960年代、巨人軍のユニホームに憧れて全国から集まって来た選手たちは、多摩川河川敷のグラウンドで汗を流し、泥にまみれていた。
寮暮らしをしていた王貞治は、当時の自分をこう回想する。 「練習が終わってクタクタになって、歩くのもいやだった。多摩堤通りを通るオート三輪に乗せてもらい、中原街道と接する丸子橋のたもとで降りて、対岸にある寮まで帰るのがやっとの毎日だった」 かつて巨人軍の強さは猛練習によって培われていた。生え抜きの選手を鍛え上げ、巨人の伝統を叩き込み、一人前に育てていく。その選手たちが戦う集団となったからこそ、数多の栄光も生まれたのだ。 伝説として残っているのは球団創設まもない1936年に行われた、茂林寺(群馬県館林市) の猛特訓。2度の米国遠征の後、慢心と気の緩みによって弱体化していたチームを引き締めるため、藤本定義監督が白石敏男、永沢富士雄らに、彼らが血反吐を吐くまで猛ノックを浴びせた。 多摩川での猛練習が始まったのは、それから26年後の1962年。川上哲治監督就任2年目、前年の首位から4位に転落した直後だった。 そしてその猛練習が、1965年から始まるV9という偉業の礎となったのである。
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ONを中心に、柴田、土井正三、森昌彦(現・祇晶)らの脇役がしっかり機能していた無敵の川上政権が終わりを告げたのは1974年であった。そしてその後を引き継いだ青年監督・長嶋茂雄の下、伝統の猛練習が復活する。地獄の伊東キャンプである。 1979年、監督生活5年目の区切りのシーズンを5位で終えた長嶋は、チームの主力をV9選手から生え抜きの若手に切り換える必要性を痛感した。そこで自分が立教大学時代にキャンプを張り、千本ノックで鍛えられた静岡県伊東市に秋季キャンプの場所を定め、少数精鋭の18名で猛練習を始めたのであった。 キャンプ参加者の一人、角盈男はこう語る。 「『レギュラーポジションは与えられるものではない、奪い取るものだ』という長嶋さんの大号令の下でスタートし、みんなライバル心を持って臨みました。V9メンバーの参加は河埜(和正)さんだけでしたから、誰も口にはしませんでしたが、『打倒V9、第二の黄金時代を作ろう』という意気込みもあった」 当時の巨人は江川卓の“空白の一日”事件もあって、世間的にも肩身の狭い思いをしていた時期だった。それだけに、何とかもう一度強い巨人を自分たちの時代に作って、盟主の座に復権したいという思いが、選手たちにはあった。
練習内容は、とにかく厳しかった。中畑清が言う。 「駒澤大学の太田(誠) 野球の練習が厳しいといっても、あんなに厳しいのは初めての経験だった。まず、朝の散歩があって、これはミスターと一緒に散歩ができたという嬉しさもあったけど、後はもう大変。午前中は守備練習で、初日から千本ノックなんですよ。昼飯に出たのがカレーライスで、俺はカレーは大好きなんだけど、食べた瞬間、全部吐いちゃったからね。午後からは特打ち。最低、一日千スイングというのがテーマだから、振って振って振りまくった。それから階段上りをやり、腹筋をやって、夜はまた素振り。宿舎には温泉があるんだけど、風呂の中ではみんなマグロみたいに寝てるんだから。 でもあれだけの練習をやれたから、野球人としてこれから何があっても乗り越えられる、という自信がついたような気がするね。『これが巨人の伝統なんだ』という意識もできた」 角がフォームをサイドスローに変えたのは、この伊東キャンプだった。 「投手陣の練習は単純で、午前中は投げるだけ、午後は走るだけ。ただ、一日に300球、400球と投げさせられた。投げ込みが100球を過ぎ、200球を過ぎると、腕がだんだん上がらなくなる。さらに投げ込むうちに力が抜け、ヒジや肩に負担のかからない、『これなら何球でも投げられる』というフォームが無意識のうちに見つかった。それを外から見たら、たまたま腕が横になっていただけです」 最も厳しい特訓を受けたのは、のちにセ・リーグ最多盗塁記録を作った“青い稲妻”、松本匡史だったという。角が続ける。 「松本さんは俊足を生かすため、スイッチヒッターを目指して左打ちを練習してました。昼食の30分を除いて朝早くから夕方6時頃までみっちり鳥かご(バッティングケージ)の中に入っていた。晩飯は『左手で食え』と言われてたので、苦労して食べてましたね」 中畑は松本を本気で心配していた。 「あいつがマシーンで球を打つ音が目覚まし代わりだった。みんなの何倍も練習してたから、死んでもおかしくないと思ったね。ミスターもつきっきりで、延々ゴロばかり打たされてた。俺たちは猛ノックで涙を流してたけど、あいつは涙を流す暇もなく、血を流してたんじゃないかな。だから3割バッターになれたんだよ」 <後編に続く>
(「Sports Graphic Number More」永谷脩 = 文)