「これから歩いて仙台に行く」6歳の有はうなずきリュックにぬいぐるみを詰め込んだ<被災記者 河北新報・渡辺龍の5年6カ月(2)>

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 東日本大震災の津波で、宮城県南三陸町にあった河北新報の志津川支局(現気仙沼総局南三陸分室)も流失した。駐在記者の渡辺龍(りょう)は南三陸の復興の歩みを追い続けたが2016年9月、大腸がんのため43歳で死去した。震災から15年。渡辺は南三陸の何を伝え、どんな未来を思い描いたのか。被災記者の軌跡をたどった。(門田一徳)

津波被害翌日の宮城県南三陸町志津川の中心街。前日まであった港町が一変した=2011年3月12日午前6時ごろ

 早朝からヘリコプターがけたたましい音を立てて上空を飛び交う。自衛隊の1機がグラウンドに降りてきた。2011年3月12日午前6時半、宮城県南三陸町の志津川高(現南三陸高)。ヘリは重篤患者4人を運び込むと、急いで飛び去った。

 校庭から見えるはずの街並みは消えていた。河北新報志津川支局(現気仙沼総局南三陸分室)の記者渡辺龍は前日、高さ16メートルの津波になぎ倒され、押しつぶされる町の一部始終をカメラで捉えていた。

 津波の後、携帯電話の回線はほぼ途絶えた。仙台市青葉区の河北新報本社に画像を送る手だては自ら持ち込むほかない。高校につながる道路はどれもがれきで埋まり、町と宮城県登米市を結ぶ国道398号は、どこが道路なのか見分けがつかなかった。

志津川高グラウンドに着陸して高齢者らを搬送する自衛隊のヘリ=2011年3月12日午前6時45分ごろ、宮城県南三陸町志津川

ノートに「仙台」車はなかなか止まらず

 渡辺は約20キロ離れた登米支局を徒歩で目指すことに決めた。幼稚園から一緒に避難した長男有(21)はまだ6歳。「これから仙台に行く。大変だけど大丈夫?」。有は「一緒に行く」とうなずき、リュックにカメとジンベエザメのぬいぐるみを詰め込んだ。

 正午過ぎ、渡辺は高校からの細い道を下って水尻川沿いに西に向かった。がれきは海の見えない内陸部まで及んでいた。有と手をつなぎ、時に背負って歩く。途中、地域の農家にトマトを分けてもらった。前日からほとんど食べ物を口にしていなかった有には、とても甘くおいしく感じた。

 峠を一つ越えて国道398号に出ると、渡辺は「仙台」とボールペンで太書きした取材ノートを掲げた。車はなかなか止まらない。1台の警察車両がようやくつかまり、近くの小学校まで乗せてくれた。

 しばらく歩くと地元の女性が声を掛けてくれた。「どこまで行くの? 登米の街までなら送ってあげるよ」。聞くと給油に行く途中という。渡辺は感謝を伝えて後部座席に有と座った。

カメとジンベエザメのぬいぐるみ。有は今も大切に保管している

徒歩と車、タクシー乗り継ぎ本社へ

 登米支局駐在の柏葉竜(りょう)(48)は本社に南三陸取材の指示を受けて12日朝、現地に入った。支局も電気、通信が途絶えていた。登米市に戻ると市役所で知人に通話可能な電話会社の携帯を借り、本社に原稿を吹き込んで支局に戻った。

 午後4時ごろ、チャイムが鳴り玄関を開けると渡辺が立っていた。「無事だったんですね」。驚く柏葉に渡辺は写真を送信できないか尋ねた。回線不通と聞くと「乗せてもらって行く」と告げて足早に支局を後にした。

 その後、渡辺はタクシー2台に運よく乗り継ぐことができ、登米市から約70キロ離れた本社に午後6時前に着いた。「無事で良かった」。6階の編集フロアに入ると歓声が沸いた。

 渡辺の妻薫(50)は、志津川高への避難を伝えるメールを最後に2人からの連絡が途絶えていた。11日は診察のため仙台にいて、南三陸に戻れず12日も仙台の実家にいた。本社に着いたとの一報を受けて駆け付けると、有はソファにちょこんと座ってせんべいをかじっていた。「心配したんだから」。涙声の薫は、ありったけの力で有を抱き締める。有はせんべいを手にきょとんとしていた。フロアから拍手が起こった。

 渡辺が持ち帰った251枚の中から、津波の連続写真5枚が13日付朝刊の特集面に組み込まれた。南三陸の津波を地上から記録した報道記者は渡辺一人。町を襲った津波の惨状を最初に報じた記者となった。(肩書は当時。敬称略)

「仙台」との文字を描きヒッチハイクに使ったノート

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