原爆で全身やけどした兄、「トマトが食べたい」と言って息を引き取る…用意できなかった母は毎日泣いた
広島に投下された原子爆弾で、12歳上の兄・盛一さんを亡くした。全身にやけどを負った兄は「トマトが食べたい」と言って息を引き取った。満足な治療を受けさせてやれなかったことを悔やみ、毎日泣いていた母親の顔が忘れられない。「もう二度とこんな悲劇は起きてほしくない」。子供たちに戦争の悲惨さを伝えることが、生きながらえた自分の使命だと思っている。
生徒からの感想文などを手に、語り部活動について話す吉田さん(岡山市北区で)1945年夏、当時暮らしていた広島市内の自宅から、広島県北部へ疎開していた。疎開先の学校で、8月6日午前8時15分を迎えた。遠くに黒い煙が立ち上るのを見たが、何が起きたかは分からなかった。
一方、兄は東京で働いていたが、同年3月の東京大空襲で焼け出され、広島に帰省。空襲による延焼に備えて建物を事前に壊す「建物疎開」の作業に出ていて被爆した。爆心地から1キロ以内の場所だった。
母と5歳下の妹は、自宅が倒壊し、爆心地からさらに離れた叔母宅に避難した。やけどを負った兄もいったんは叔母宅にたどりついたが、治療を受けることなく、搬送先で5日後に息を引き取った。
吉田さんは原爆投下後に叔母宅に向かい、このとき入市被爆した。記憶は断片的だが、辺り一面が焼け野原だったのを覚えている。
戦後、母や妹と共に岡山に移った。原爆の影響かは不明だが、20歳の時に重度の貧血を患い、医師からは「30歳まで生きられない」と宣告された。それでも徐々に回復し、27歳頃に岡山市内で就職、同居する母を支えながら戦後を生きた。
広島原爆で亡くなった兄・盛一さん=吉田さん提供母は兄を満足に看病できず、最期に「食べたい」と望んだトマトを用意してやることもできなかったことで、自らを責め続けた。そんな母も84年、83歳で亡くなった。
兄の記憶はないが、遺影を見てその面影をしのぶ。「きっと優しいお兄ちゃんだったんだろうな」
数年前、所属していた地元被爆者団体の会長から声をかけられ、被爆体験の語り部活動を始めた。高齢化で活動が困難になっている他の被爆者の様子に、「今話さなければ、私もいずれ話せなくなる」と決意したからだった。
2021年夏、岡山市内の中学生らに初めて自身の体験を語った。熱心に聞き入る生徒たちの姿に「語り部になってよかった」と思えたという。
今年春までに約10校で講話を行った吉田さん。毎回楽しみにしているのが、生徒たちから送られてくる感想文で、なかでもうれしかったのは、「私も語り部になってたくさんの人たちに伝えていきます」という言葉をもらったことだった。
戦後80年となり、もうすぐ被爆者なき時代が訪れる。「兄を助けられずに悔やんだ母の涙が忘れられない。残された家族もつらい思いをする戦争を繰り返してほしくない」。これからも命ある限り、語り伝えていくつもりだ。(中田敦子)
よしだ・しげこ 広島市出身、10歳で入市被爆した。岡山市北区在住。同市原爆被爆者会の会員で、原爆の被害を伝える語り部として活動している。