訃報の3日前「みやちゃんなら大丈夫」 大号泣の別れ…宮崎颯を支配下へ導いた天国からの叱咤
亡き恩師の言葉が、ひたむきな左腕をここまで成長させた。宮崎颯投手が支配下登録されることが25日、わかった。東農大から2022年育成ドラフト8位で指名された左腕は、入団直後に左肘のトミー・ジョン手術を受けるという大きな試練に直面した。長いリハビリ期間を経て、今季は2軍で20試合に登板し、防御率1.11の成績をマーク。力強いストレートを武器に、打者をねじ伏せる気迫の込もった投球が持ち味の25歳が、プロ3年目でついにチャンスを掴んだ。
成長の背景には、高校時代の恩師である故・若生正廣氏の存在がある。東北高でダルビッシュ有投手(現・パドレス)を育てた名将としても知られる若生氏。宮崎は埼玉栄高で3年間、指導を受けた。「若生さんと出会って、人間力、そして野球人としての基礎を育ててもらったと思います」と、感謝を口にする。
その絆は、3年間の高校野球生活だけで終わるものではなかった。2021年に若生氏がこの世を去ってからも、宮崎と恩師との間には温かい“対話”が続いているという。
「事あるごとに、若生さんが夢に出てくるんですよ。出てきたらめちゃくちゃ叱られるんです。『ビシッとせえや、ビシッと!』『調子に乗んなよ!』みたいな夢を4時間とか見て、起きたら頭を抱えて冷や汗をかいています」
左腕が壁にぶつかった時、そして慢心が生まれかけた時--。若生氏は必ず夢枕に立ち、正しい道へと導いてくれる。その言葉は厳しくも温かい。「何かが緩んでいるかもしれない、と思わせてくれるんです。慢心しているというか。そういうところが見えると、言ってくれているんだろうなと思います」。
「お前ならプロに行ける」残した最後の言葉
中学時代、多くの高校から誘いがあったという宮崎が選んだのが埼玉栄高だった。「学校名しか知らなくて、監督の名前も全然知らなかった」。そんな中で出会った若生氏に、宮崎は直感的に惹かれた。
「初めて会った時に『この人だったら人としても野球人としても成長できる』と思いました。この人についていったら大丈夫だと確信しました。いい方向に自分がいけるな、と」
高校卒業後も連絡を取り、近況を報告する宮崎に、若生氏はいつも親身にアドバイスをくれた。そんな恩師を心から信頼していた。しかし、大学3年の時、突然の悲報が届く。高校の野球部のグループLINEで若生氏の訃報が伝えられた。「半日大号泣しました」。恩師との突然の別れに、涙が止まらなかった。
宮崎の心には、その悲しみ以上に鮮明に刻まれている記憶がある。若生氏が亡くなる、わずか3日前にかかってきた一本の電話だ。「『調子どうなんや?』と聞かれたので、『秋のリーグ戦で、チームのために全力で投げて勝ってきます』と答えました。そしたら『みやちゃんなら大丈夫や。絶対大丈夫、お前ならプロ行けるわ』と言われたんです」。
それが恩師との最後の会話になった。「いろんな言葉をかけてもらいましたけど、一番インパクトに残ってます」。その秋、宮崎は東都2部リーグで最優秀防御率のタイトルを獲得。恩師の墓前を訪れ「おかげさまで取れました」と報告した。
4月にも言われた“高校時代からの檄”
若生氏は、今も宮崎のことを見守り続けている。直近では4月頃に夢に出てきたという。「『今は成績がいいからって、調子に乗るなよ』と言われましたね。そうなっているというよりかは、“そうなるなよ”という戒めでした。『抑えるのはピッチャーとして当たり前だぞ。それがお前らの仕事だから』と。高校時代からよく言われていたのと同じ言葉でした」。
その“お告げ”を受けてから、宮崎はさらに懸命に腕を振り、結果を出し続けてきた。「頑張って頑張って、壁にぶち当たった時にヒントをくれるのが若生さんなんです」。支配下登録という大きな目標を叶えた今、真っ先に報告したい相手も、もちろん恩師だ。お墓には、若生氏が好きだったタバコの「HOPE」を供えるのが恒例となっている。
亡き恩師の言葉を胸に、宮崎は新たなステージへと歩みを進める。天国から注がれる厳しい叱咤と温かい激励。それらを力に変え、1軍のマウンドで相手を抑え込む姿を見せることが、最大の恩返しとなるだろう。次に“会う”ときは褒めてくれるに違いない。
(飯田航平 / Kohei Iida)