「いい人生でした」暴走する原発に死を覚悟、福島第一原発の緊急対策室で遺書を書いた警備員 #知り続ける

「カホル、全てにありがとう、いい人生でした。母へ、元気で、先にスマン」。家族などに宛てた遺書が書かれたのは2011年3月14日。福島第一原発の緊急対策室で、原発の警備を担当してきた男性が死を覚悟してしたためた。 東日本大震災に伴う巨大な津波が福島第一原発を襲い、原発は一時制御を失っていた。ただ、職員や関係者たちはあきらめなかった。立場をこえてみなが暴走する原発を止めようと必死に協力していたのだ。1号機から3号機がメルトダウンした原発事故から、まもなく15年。あの現場で何が起き、そして人々は何を思い、事故の対応にあたったのか。関係者の証言からその教訓を探っていく。 「ばっぱの手ぇ離せ!」見殺しにしてしまった…男性が批判浴びても訴える津波避難のリアル #知り続ける

2011年3月11日午後2時46分。福島第一原発は激しい揺れに襲われた。「本棚やロッカーが倒れ、女性職員の泣き声が響いた」協力企業棟の事務所で作業をしていた警備会社幹部職員の土屋繁男さん(77)は職員を外に避難させ、車のテレビで津波警報が発表されていることを知った。その後、被害の状況を確認しようと原発構内を見回った土屋さん、津波に襲われた当時の激しい爪痕は今も脳裏に焼き付いている。 「海岸線の方を見たら貯水タンクか油のタンクかわからないけど、100メートルぐらい流されてきた」「駐車場に止まっている数台の車が海側のフェンスに突き刺さっていたのが見えて、これはすごい津波が来たんだなと」 高さ15メートルもの巨大な津波で、全ての電源を喪失した福島第一原発。土屋さんはこの時、その事実を知る由もなかった。「電話もつながらないし、情報を知らせる無線もなかった」 幹部職員として構内に残った土屋さん。原発の情報を得ようと、急ぎ、緊急対策室がある免震重要棟へ向かった。「原発が壊れるとか、そういうことは考えてなかった。明日片付ければいいから俺たちは今夜ここで過ごそうと思っていた」。

「関係のない人は(緊急対策室を)出ちゃ困ると、防護服着ないと出られないみたいな」土屋さんが緊急対策室に入った約1時間後、協力企業の職員に外出禁止の命令が出された。それでも土屋さんは、原子炉は大丈夫だと思っていたと話す。 「吉田昌郎所長や作業員たちは自分の業務で必死に働いていた様子だったが、統制が取れてもう整然と動いていた。(核)燃料から水は上にあるとの報告も聞こえたので」。 しかし、原発は刻々と最悪の事態へと向かっていた。 大熊町出身の土屋さんは高校卒業後に上京し、通信機器の修理などの仕事に就いたが、故郷で落ち着いて暮らそうと思い、35歳の時にUターン。「県民所得の1番は原子力発電所がある大熊町とも言われていた」。原発によって町が潤い、知り合いのほとんどが原発関連の仕事をしていた。土屋さんも原発の警備会社に就職し、28年間勤めた。 「この第一第二(原発)は技術の粋を集めている。世界の原子炉のモデルで安全安心の原子炉だと言われて、私もそれを聞いて、安全だなと思いながら働いていた」 放射線取扱主任者の資格を取り、原発についても自分なりに勉強していたと話す土屋さんには地震直後、緊急対策室は「いつも通り動いている」ように見え、事態は次第に収束すると思い込んでいた。しかし、事故翌年に東京電力がまとめた解析結果によると、1号機のメルトダウンは土屋さんが緊急対策室に入る前にはすでに始まり、誰も気が付かないうちに最悪の事態へと突き進んでいたのだ。


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3月12日未明、「ベント」についてのやり取りが何度も聞こえたと話す土屋さん。この時、1号機では原子炉や格納容器が壊れて人が死ぬレベルの大量の放射線物質が漏れだす前に、原子炉の圧力を下げる配管の弁をあける「ベント」作業が進められていた。本来は電動で開閉できる弁も、電源が喪失しているため操作不能に。被ばく線量が高まる中、作業員による決死の手動開放が試みられるも、失敗。そして午後2時30分、遠隔で圧縮空気を送り込み、ようやく弁を開けることに成功した。「ベントが成功したという感じの話があって、良かったと」しかし、喜びもつかの間。 「ドーンと突き上げるような音がした。天井から埃がバラバラっと降ってきて、通路のつなぎ目が少しずれたような感じがして」 大きな地震が起きたと思っていた土屋さんの目に飛び込んできたのは、テレビに映し出される1号機の水素爆発であった。「外にいた作業員が慌ただしく戻ってくるなど、動きが激しくなってきた。吉田所長が作業員に対して『ちゃんと調べてから報告しろ』っていうのが耳に残っている。それぐらい混乱し始めた」事態の深刻さに気づいた土屋さんは何か残さなくちゃいけないと思い、緊急対策室で起きていることを小さなメモ帳で記録し始めた。

「3号機も厳しくなってきている、13日午前9時20分頃にベント」「4号機の燃料プールの温度が上がっている・・・」土屋さんが書き残したメモには次々起こる原発の危機が記されていた。一方、現場の作業員は死と隣り合わせの現場に立ち向かい続けていた。 「線量が高まる危険な状況で、限度線量をくった人もいたみたい。それでも誰か作業に行かないといけないので『私大丈夫です』って手を挙げて現場に向かう時に、周りが頼むぞと送り出す。飲料水もなくなってきて『これ飲んでいけ』と言っていたと思う」 当時の光景を思い出すと今も目頭が熱くなるという土屋さん。吉田所長はじめ、作業員たちはほとんど不眠不休で事故の収束作業にあたっていたが、恐怖と不安が緊急対策室には広がっていたと振り返る。

福島中央テレビ
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