だから愛子さまと悠仁さまに決定的な差が生まれた…島田裕巳「世間より男女平等が進む皇室にある"不安材料"」(プレジデントオンライン)
1月9日に皇居で行われた「講書始の儀」からどのような皇室史が見えてくるか。宗教学者の島田裕巳さんは「講書始の歴史は古く、明治天皇は皇后もその学びの場に同席させている。これは、当時の社会状況からすれば画期的なことだった」という――。 【写真をみる】男系男子による皇位継承を強く主張した明治期の政治家 ■三賢人が講義をする「講書始の儀」 新しい年が明けて1月9日、皇居では「講書始(こうしょはじめ)の儀」が行われた。各界の第一人者が天皇夫妻の前で講義を行うもので、その場には、皇族たちも集った。今回は、成年の儀を終えた秋篠宮家の悠仁親王が初めて参加し、それが話題にもなった。 今回の講義は、佐々木正子(まさこ)・嵯峨美術大学名誉教授による「江戸時代の日本絵画」、御厨貴(みくりやたかし)・東京大学名誉教授による「オーラル・ヒストリーとは何か」、そして家正則(いえまさのり)・国立天文台名誉教授による「観測天文学最前線と日本の活躍」だった。 私は、20年ほど前に、東京大学先端科学技術研究センターで特任研究員をしており、その際には御厨研究室に所属していた。その関係で、御厨氏のことは存じ上げており、前の年に陪席者となったことは聞いていた。そのときから、どんな講義になるかに関心を抱いていた。 オーラル・ヒストリーといえば、拙著『日本人にとって皇室とは何か』(プレジデント社)でも触れたように、三笠宮家の彬子女王が、祖母である百合子妃にそれを行っている。彬子女王は、間違いなく御厨氏の話を興味深く聞いたことであろう。 一方、初参加の悠仁親王は、まだ大学の1年生なので、今回の講義の中で興味を持つような話題はなかったかもしれない。講書始の儀では、必ず人文科学、社会科学、自然科学の3つの分野の権威が講義を担当する。 ■明治天皇とともに講義を受けた皇后 講書始の歴史は古い。明治2(1869)年の発足時には「御講釈始(ごこうしゃくはじめ)」と呼ばれ、明治5(1872)年からは、現在の名称に改められた。 第1回は現在の皇居ではなく、京都御所で行われ、「日本書紀」と「論語」が講義された。当時の分類では、「日本書紀」の講義が「国書」、「論語」が「漢書」にあたるが、明治9(1876)年からは、そこに「洋書」が加えられている。現在の形になったのは、戦後の昭和28(1953)年からである。 講書始について注目されることが二つある。 一つは、講義を受けた明治天皇が相当に若かったことである。明治天皇の生まれは嘉永5年、西暦では1852年11月のことだった。講書始が1869年1月に行われたのだとすれば、16歳である。悠仁親王よりも若いのである。 もう一つ、明治6(1873)年からは皇后も天皇とともに講義を受けている。皇后のほうが天皇よりも年上だったが、明治天皇はその時点でも20歳である。皇后を同席させたのはその若き天皇であり、文明開化を推し進める上では、女性にも学びの機会を作ることを重視したからだという。これは、当時の社会状況、社会通念からすれば画期的なことだった。 男女平等という面で、皇室は一般の社会よりも先を行っていた。皇室といえば、「菊のカーテン」とも言われるように、伝統が特に重んじられ、閉鎖的というイメージがある。だが、それは誤った見方なのかもしれないのだ。