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戦後最大のスター長嶋茂雄さんの訃報を受け、海外からも惜しむ声が上がっている。
1996年に16勝を挙げ、セ・リーグ最多勝利投手となった、バルビーノ・ガルベスさん(61)。 ドミニカ共和国出身のガルベスさんは、同年、テスト生として巨人の春季キャンプに参加。いきなり時速150キロ超の速球を連発し、長嶋監督がほれ込んで入団が決定。大逆転でリーグ制覇した「メークドラマ」の原動力となった。
“悪童”助っ人バルビーノ・ガルベスさんに、長嶋さんとの思い出や“あの事件”の裏側を聞くと、スポーツマンとして、監督として愛され続けた“紳士ミスター”の姿が見えてきた。
(ANNロサンゼルス支局長 力石大輔)
メークドラマの舞台裏 “悪童”にも刺さった気遣い
―長嶋監督が亡くなって、率直な気持ちは
昨夜は悲しい気持ちになりました。日本でいかに長嶋さんが愛されているか、僕は知っています。長嶋さんがいたから、日本では良い思い出ばかりです。
―テスト生としてキャンプに参加、入団が決まった時の記憶は
テストの後、長嶋監督はオフィスに僕を呼んで直々に「私たち巨人の一員としてやりましょう」と話してくれました。それが合格通知だったんです。僕にとって監督は、日本への扉を開いてくれた恩人です。監督がいなければ、巨人に入っていなかったでしょうし、何一つ成し遂げていないでしょう。
―1996年は16勝で「メークドラマ」を実現した。長嶋監督とのやり取りは
監督はいつもチームを鼓舞していました。とても刺激になりました。あの年、選手全員が100%の力を出し切れたのは、長嶋監督の指揮が素晴らしかったからです。どの選手にも、厳しい言葉は投げかけませんでした。使い捨てのように選手を扱うことは、全くありませんでした。だから選手は一生懸命、監督のためにプレーしました。
―具体的に覚えているやり取りは
もう日本語は、全部忘れてしまったなぁ(笑)日本は食べ物もおいしかったし、ファンも素晴らしかった。特に覚えているのは「長いシーズン、途中でバテないよう、最後まで活躍できるコンディショニングを続けよう」という言葉でした。開幕前に言われてすごく覚えています。その後も何度も言われました。あとは、監督がいつもグラウンドをウロウロしていたのをよく覚えています。「あれはどこにある?」と聞いたりしてね。投手・野手関係なく、選手たちと過ごす時間が、長い監督だなぁと思いました。異国から来た僕のことも、とても気にかけてくれました。「しっかり食べてるか?寝てるか?」と、よく声を掛けてくれました。
―気遣いの監督だったんですね
とても、とてもです。外国人選手だけでなく、全選手に気を遣ってくれました。僕と長嶋監督は言葉でコミュニケーションを取れないから、その分じゃれたりして、たくさん遊んでいました。そんなたわいのないことでも、問題がないのか、順調なのか確認してくれていたんだと思います。
―優勝して、長嶋監督を胴上げした時の気分は
胴上げしたのは名古屋だったかなぁ、甲子園だったかなぁ。いや、名古屋だ!間違ってないよね?(笑)そうなんだ、僕たちは優勝したんだ!チーム全体で勝ち取ったんだ。野球は一人では勝てないからね。優勝だけが目標だったから、本当にうれしかったなぁ。長嶋監督の指揮があってこその優勝で、皆で祝福しました。
“悪童”ガルベス健在 丸刈り事件「禊(みそぎ)って何?」
ガルベスさんは、マウンドでの激高っぷりも話題となり、乱闘劇を何度も演じた。1998年の阪神戦では判定に怒り狂い、審判にボールを投げつけ、長嶋監督がなだめてベンチに戻る一幕も。ガルベスさんには、残りシーズンの出場停止処分が下され、長嶋監督が頭を丸めて禊を行うこととなった。この事件について、ガルベスさんは身を乗り出して答えた。
―1998年の阪神戦では、審判にボールを投げつけた事件もありましたね
どのスポーツでも、自分を抑えられなくなる瞬間はあるものだからね。あの暴投事件は、そのうちの一つだったんだ。確かに良くないことだったけど、済んだことは済んだこと。もう何もできないし、後悔はありません。
―禊の意味も込めて長嶋監督は丸刈りにしました。髪を見てどう思いましたか
監督が髪を切ったのは、覚えているけど、僕の事件と関係あるの?僕の事件が原因だって知らなかったよ(笑)あの年の阪神とのやり取りでは、長嶋監督もフラストレーションをためていたと思う。それで気分を変えようと思って、監督は髪を短くしたのだと思っていたよ。人によって髪を切ったり、いつもより寝たり、フラストレーションを解消する方法は様々でしょう。監督は髪をそって、イライラを解消したのだと思っていた。
―監督の丸刈り姿を見ても、気にしていなかった
全く気にしてなかったね。何も深く考えてなかったよ(笑)人によってヘアスタイルは様々。急に伸ばす人もいるし、短くする人もいるし。女性だったら赤くしたり、金髪にしたりね。「へぇ、髪切ったんだ監督」と思っていたよ。禊って何?(笑)
―暴投事件の後、監督は何と
宿舎の食堂でチームミーティングが開かれ、まず長嶋監督が出場停止処分について説明し、僕が申し訳なく思っていることを、チーム全体に伝えました。僕もチームメートに謝りました。その後、監督の部屋に行き、通訳さん入れて3人だけで話しました。
「リーグが決定した処分で、これ以上はどうしようもできない」と言われました。監督は「ドミニカ共和国にいったん戻った後も、ちゃんとトレーニングを続けて、体を維持しておいてね。来年には戻ってもらうんだから」と最後まで励ましてくれました。2000年に日本を離れてから、監督には連絡していません。
「監督ゴメンナサイ」 海を越える“紳士ミスター”
―長嶋監督はどんな存在だった
関係としては、監督と選手ですが、男性として、スポーツマンとしてリーダーとして、長嶋監督という紳士に、尊敬以上の念を持っています。そうです、紳士とはこういう人のことをいうのです。
―監督に伝えたいことは
チャンスを与えてくれて、日本でキャリアを積ませてくれて、本当にありがとうございました。その感謝の言葉しかありません。
―暴投事件について、監督に言いたいことは
阪神タイガースに言いたい事かい?(笑) それは冗談として、監督にはやっぱり謝りたい。「ゴメンナサイ」って言いたい。どんな監督だって、先発の柱をシーズン途中で失いたくはない。出場停止処分になって、本当にゴメンナサイ。
―日本のお父さんのような存在だったんですね
僕だけのお父さんではなく、チーム全員のお父さんでした。チームの顔でした、誰からも尊敬されていました。ファンも含めて、本当に尊敬されていました。これが僕の知っている、本当の長嶋監督の姿なんです。色々話したけど、最後に言わせて下さい。長嶋監督、ご家族の皆さん、ファンの皆さん、哀悼の意を捧げます。これからも、監督のサポートを忘れません、感謝し続けます。ある日、私たちは会わなくなるかもしれない。でも私たちは生き続けるでしょう。人生とはそういうもので、私たちは死や別れに向かって生まれてきたのです。たとえ辛くても、私たちは皆それを、乗り越えられます。だからこそ、別れは悲しい瞬間であり、誰しもきて欲しくない。だけど、受け入れることを学ばなければはらない。そして、その前に進もうとする営みは、永遠に続くでしょう。アリガトウゴザイマシタ!
1996年の「メークドラマ」、当時8歳だった昭和62年生まれの記者にとっても、長嶋さんの姿は、強烈なものだった。昭和を生きた人にとっての長嶋さんは、想像もつかないくらい大きいのだろう。別れは悲しいはずだが、思い出すとなぜか人を笑顔にする、長嶋さん。その根底には、誰からも愛される「紳士な姿」があったのではないか。
お金や名誉、コスパ、明け透けにすると恥ずかしいとされたものが、何よりも価値を持っている今の時代だからこそ、紳士ミスターの姿が懐かしく、いとおしいのかもしれない。