支持率8割超えの一方で…高市首相叩き「トランプの現地妻」「パンパン」無意識に日本サゲする人の"病理" 日本人が再生産するオリエンタリズムと「正しい女性政治家」幻想

高市新政権の支持率が8割を超える高率となった。その一方、就任直後の外交の様子を見て、日本史上初の女性首相に対する批判や揶揄の声も多かった。ジャーナリスト池田和加さんは「『(高市首相はトランプ大統領の)現地妻』『芸者外交』『パンパン』『キャバ嬢』といった強い表現があふれた。性的ステレオタイプによる批判をする日本人の心理には刷り込まれたものがある」という――。

高市早苗氏が日本初の女性首相となった歴史的転換点において注目を集めたのは、彼女の経済政策でも安全保障戦略でもなかった。リベラル派のジャーナリスト、研究者、そしてフェミニストたちが論じたのは、トランプ大統領との「接し方」だった。

共産党の池内さゆり氏による「(高市首相はトランプ大統領の)現地妻」というXへの投稿が物議を醸した。SNS空間には「芸者外交」「パンパン」「キャバ嬢」といった言葉があふれた。こうした性的ステレオタイプによる批判は、日本だけの現象ではない。世界中の女性政治家たちが繰り返し直面してきた構造的問題の一部である。

女性政治家を待ち受ける二重基準――歴史が示すパターン

1969年にイスラエル首相となったゴルダ・メイアは「中東で唯一の男」と揶揄された。リーダーシップを発揮すれば「女性性を失っている」と見なされる構図がそこにあった。

正反対の現象として、1979年、マーガレット・サッチャーがイギリス初の女性首相となったとき、メディアが注目したのは彼女の声のトーンだった。「甲高すぎる」「ヒステリック」という批判を受け、彼女はボイストレーニングを受けて声を低くせざるを得なかった。ゴルダ・メイアとは真逆に、声が女性らしすぎるとして批判されたのである。男性政治家の声が同様に論じられたことがあっただろうか。

それから10年以上経った1990年代、ヒラリー・クリントンはファーストレディとして医療制度改革に取り組んだ。すると「でしゃばっている」として批判された。後に上院議員、国務長官を経て大統領候補となると、今度は「冷たい」「野心的すぎる」と評された。協調的に振る舞えば「リーダーシップがない」、毅然とすれば「女性らしくない」。どちらに転んでも批判の対象となる二重拘束に縛られた。彼女のパンツスーツは政策提案よりも頻繁に報道され、笑顔の有無が能力評価に結びつけられた。

2016年にテリーザ・メイが英国首相に就任すると、メディアは彼女の脚に焦点を当てた。重要な政治会談の報道で、新聞の一面を飾ったのは「脚に注目」という見出しだった。同じ時期、ルックスがこれほど執拗に取り上げられた男性政治家はいない。

一方ドイツでは、アンゲラ・メルケルが16年間国を率いたが、その間ずっとファッションについて言及され続けた。「地味すぎる」「もっと女性らしい装いを」という声が絶えず、メルケルがドレスアップをしたときは、「胸の谷間が見えすぎる」とバッシングされた。

2018年、ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相が在任中に出産すると、「母親業と国家運営を両立できるのか」という疑問が呈された。育児が彼女の統治能力と結び付けられて問題視されたのである。男性政治家たちが父親であっても、仕事と家庭の両立を疑問視されることはない。

最近ではカマラ・ハリスが副大統領候補になったとき、検察官、カリフォルニア州司法長官、上院議員といった彼女のキャリアよりも、「男と寝て出世した」という性的な臆測が飛び交った。彼女の笑い方は「不適切」と批判され、発言の仕方は「攻撃的」あるいは「頼りない」という正反対の評価を受けた。

日本国内でも同様である。小池百合子東京都知事は「厚化粧の女」という人格攻撃を受け、蓮舫氏は「攻撃的で女性らしくない」というレッテルを貼られた。いずれも、政策の是非よりも、女性としての振る舞いが問題にされた。

つまり、高市氏をめぐる議論は、この長い歴史的パターンの最新版に過ぎない。その典型例が、階段での写真をめぐる議論である。

トランプ大統領が来日した際、階段を降りるトランプ氏が高市氏の手を支えた写真が拡散された。日本の識者たちは「親密すぎる」「服従的な姿勢」と、高市氏が女性性を利用してトランプを籠絡しようとしたと解釈した。

しかし、ここには医学的事実が見落とされている。高市氏は関節リウマチを患い人工関節を使用しているのだ。トランプ氏は単に、身体的困難を抱える同盟国のリーダーをサポートしただけかもしれない。ジェンダーバイアスを外せば、二人の振る舞いは国際政治の場でよく見られる程度のものだ。これまでもメルケルやイタリアのメローニ首相が、他国の男性首脳と挨拶のキスやハグを交わし、手をつなぐ場面があった。


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興味深いのは、メディアの偏向報道やSNS炎上とは裏腹に、世論が全く異なる反応を示していることである。

読売新聞が10月21〜22日に実施した調査では、18歳から39歳までの若年層で高市氏への支持が約80%に達した。支持は現在、年齢・性別を問わず全国的に広がっている。

さらに、SNS上では「さな活」という現象が生まれている。高市氏が身につけたバッグやアクセサリーが注目され、同じ商品が売り切れになるケースが相次いでいる。これは彼女のファッションセンスへの支持だけでなく、一般家庭出身で地道に努力してきた彼女の生き方への共感を示している。

高市早苗という政治家の登場は、日本社会に重要な問いを突きつけている。女性政治家は、リベラル派が多数を占めるメディアやアカデミアが望む政策を支持しなければ、性差別的な言葉で攻撃されても仕方ないのか。

高市早苗氏への“ふるまい”や“表情”に対する批判が、日本人自身によるオリエンタリズムの再生産であり、グローバルなジェンダー差別の構造の一部であり、プロパガンダとフェイクニュースによる情報戦であることを、私たちは認識しなければならない。

さらに、リベラルと名乗る識者らが、「日本人として毅然とした態度をとるべきだ」と「日本人らしさ」を強調した民族主義的な主張をし始めたことも不思議だ。要は、右だろうが左だろうが、リベラルだろうが保守だろうが、過激な意見に寄れば寄るほど両派が同じに見えてくるのである。[

もし彼女が政策と無関係なバッシングで退陣に追い込まれたら、2つの有害なメッセージが国内外に向けて発信される。一つは「日本では女性が首相を務めることはできない」というメッセージ。もう一つは「事実検証なしに、誰でも性別や人種、政治信条を理由にレッテルを貼られ得る」というメッセージである。どちらも、私たちが次世代に残すべき社会ではない。

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