事件から21年「佐世保小6同級生殺害」 社会復帰した「11歳加害少女」の謝罪を待ち続ける「被害女児」実兄の“思い”

 2004年6月1日、長崎県佐世保市で世を震撼させる事件が起きた。市内の小学校で、小学校6年生の少女が、同級生の女児を殺害。背後から首を切るという凄惨な犯行は、11歳という加害者の年齢も相まって、連日大きく報道された。毎日新聞記者の川名壮志氏は当時、佐世保市局に在籍し、この事件を取材。その後も20年以上、同事件をはじめとする少年犯罪を追い続けている。その取材成果は、近著『酒鬼薔薇聖斗は更生したのか』(新潮新書)に詳しい。その川名氏が事件から20年余りが過ぎた今、遺族と加害少女の知られざる“その後”について記した。【前編】では、事件の概要と、被害女児の父が抱く“愛娘への思い”を詳述している。【後編】では、加害少女と家族、そして被害女児の兄、それぞれの“その後”について記す。 【写真】「11歳加害少女」が自ら記していたプロフィール 【川名壮志/毎日新聞記者】 【前後編の後編】  ***

 子供という存在は、周りの大人たちに同調しているかぎり、安全であるが、無力でもある。ところが、ひとたび子供たちがその枠組みから外れた行為に走ると、今度は大人たちが自分の無力さを感じざるをえなくなる。  たとえば、2004年に長崎県佐世保市でおきた小6同級生殺害事件も、それにあたるのかもしれない。小学6年の11歳の少女が、同級生の女の子を殺害した事件だ。  事件の現場となった小学校は、山の中腹にあり、各学年一クラスしかない小さな学び舎だった。  全校児童が200人にも満たない牧歌的な学校で、真っ昼間に少女が同級生を殺めた。  彼女は、どんな子供だったのか。

 当時、私は警察、同級生、学校の教師から児童相談所、家裁関係者まで、できるかぎりの取材をした。  そこから浮かび上がる事件当日の少女の行動は、こんな感じになる。  4時間目の国語の授業が終わった正午すぎ。児童たちが給食の準備にとりかかり、騒がしい時間帯。 「ちょっといい?」  少女は担任の目を盗んで、御手洗怜美(さとみ)ちゃんに声をかけた。そして、教室から50メートルほど離れた空き教室へと連れだした。  カーテンが閉めきられた部屋で、少女は怜美ちゃんを椅子に座らせると、カッターナイフで後ろから首を切りつけた。わずか15分のできごとだった。  子供とは思えないほどの蛮行だが、事件直後の少女はうすら寒くなるほど現実感が乏しい。  少女は現場で怜美ちゃんの死を確かめていた。にもかかわらず、その直後、自分の手やズボンをべったりと血糊でぬらしたまま、 「救急車を呼んで。怜美ちゃんが死んじゃう」  と教師に告げていた。  おそらく隠蔽のための言い訳ではない。自分の犯した過ちの重みがわかっていないのだ。  少女は逃げるそぶりもみせずに警察に補導され、その後、少年鑑別所へと送致された。それから2か月間にわたって精神鑑定された後、少年審判で児童自立支援施設への入所が決まった。  彼女は11歳。当時は少年院への入所の対象でさえなかった。そのため厚生労働省が管轄する児童福祉施設にしか入れなかったのだ。つまり、彼女は法律上は「社会の被害者」。「守られる」対象であり、自立が支援される存在だったのだ。


Page 2

 少女が施設に入った後、私は半年にわたって彼女の父親への取材を続けた。  なぜ、あんな事件をおこしたのか。  その理由を父親に聞きたかったからだ。  少女の自宅は、小学校の先をさらに上った山の頂上付近にあった。人里離れた僻地(へきち)にあり、少女は学校でも数少ないバス通学だった。家庭環境は、苦しかったといわざるをえない。  父親は少女が生まれた直後に脳梗塞で倒れ、身体の自由が利かなかった。父親の代わりに母親が働きに出かけ、自宅にいるのは父親。子育ての中心は、父親だった。  私が会った当時、すでに一家は離散していた。父親だけが一軒家に残り、一人で暮らしていた。私は昼間の通常の取材が終わると、午後8時過ぎからその家に通った。父親と二人きりで、何度も何度も話を聞いたが、彼女が事件をおこした理由がわからなかった。  父親は、少女の異変にさえ気づいていなかった。  事件前日の晩も、父親は少女と会話していた。少女が読みたがっていた本を、ネットで買ったのだ。それは飲酒運転の事故に遭って、身体に麻痺を負った女性が再起するノンフィクションだった。 「amazonで注文した本が、もうすぐ届くよ」  そう伝えると、彼女はうなずいたのだという。  だが、その晩。少女はインターネットで怜美ちゃんの殺害方法を検索していた。  父親はその後、御手洗さんに月1回の頻度で謝罪の手紙を送っていたが、再び体調を崩し、病院生活を送るようになり、やがて音信が途絶えてしまった。

 一方の加害少女は、その後、どうなったか。  彼女は施設内で小学校を卒業。その後、施設内の中学校(近くの中学の分校あつかいになる)に進学。義務教育を終えると、十代半ばで社会復帰した。  彼女の退所について、厚生労働省から遺族の御手洗さんには、何の連絡もなかった。  少女は名前を変え、ほとんど誰にも知られることなく、ひっそりと施設を去ったわけだ。  あれから歳月が過ぎ、彼女もすでに成人。  というより、もはや三十路を超えている。今や成熟した一人の女性として、私たちと同じ時代を生き、同じ社会で暮らしている。  亡くなった怜美ちゃんが12歳のままであることを思うと、歳月の残酷さを感じざるをえない。

デイリー新潮
*******
****************************************************************************
*******
****************************************************************************

関連記事: