公園を埋めたイラン人はなぜ消えた? 帰国後も続いた日本への思い
インタビュー
1990年前後、多くのイラン人が日本に来ました。週末には代々木公園や上野公園があふれかえりましたが、わずか2、3年ほどで潮が引くように姿が消えました。当時、彼らはなぜ日本に来て、そして帰ったのか。日本に残したものは何だったのか。イラン人120人に聞き取り調査をしたことがある早稲田大学の樋口直人教授に聞きました。
――90年代初頭、非正規滞在も含めて4万人以上のイラン人が日本に滞在していたとされます。現在の在留人数の10倍近くにあたります。当時、これほど多くのイラン人が来日したのはなぜだったのでしょうか。
イランでは88年にイラン・イラク戦争が終わった後、景気が冷え込みました。兵役を終えた若者が帰ってきて流動人口が増え、移民が生まれやすい状況になりました。
一方、日本とイランには相互査証免除協定があり、ビザなしで日本に行くことができました。日本はバブル景気で深刻な人手不足の状況にありました。多くのイラン人が観光目的だとして来日してそのまま働いたのですが、当時は非正規滞在者に対する入管当局の対応も比較的緩やかでした。
大学に合格したけど、航空券が取れたから
――どういう思いで日本へ?
初期に行った人たちの話が成功例として伝わって、日本に行くのがブームのようになりました。大学に合格したけど、同時に申し込んだ日本行きの航空券が取れたから、日本を選んだという人もいました。当時、同様に日本と相互査証免除協定があったバングラデシュやパキスタンと比べると、イランは産油国で経済的に一定程度余裕があり、比較的気楽な気持ちで日本に行く人が多かったのです。
また、日本という国については、大人気となったドラマ「おしん」や日本製の電気製品を通じて、親しみを感じていたようです。
――当時、週末に代々木公園などを何千人ものイラン人が埋め尽くすことで世間の注目を浴びました。
公園はイラン人たちにとって、情報交換や交流の場でした。バングラデシュ人やパキスタン人は早期に来日して、すでに礼拝所を作って集まっていました。一方、当時のイラン人はイスラム革命以前の世俗派のパーレビ王朝の時代に育った人たちが多かったので、宗教を介したつながりはほぼなかったと言っていいと思います。人数も多かったイラン人が、集まる場として公園を求めたことで、とても目立つようになりました。
強制送還されないよう養子縁組を
私も代々木公園を訪れました。ケバブを焼いたり床屋さんをやったりする人たちがいて、まるで中東のバザール(市場)のようでした。
――日本社会はどう受け止めたのでしょうか。
当時の日本では、「外国人労働者」のイメージは、浅黒くて彫りが深い南アジアや中東系の男性というものでした。実際の人数でいうと、中国や韓国、フィリピン出身者のほうが多いのに、イラン人は見た目で目立つせいか、実像以上に大きな存在として見られたところがあると思います。それが人種的な偏見や警戒感を引き起こし、真っ先にやり玉に挙げられることになりました。
偽造テレホンカードの密売に関与した一部のイラン人が注目されましたが、それを作っていたのは日本人で、失業したイラン人がその末端を担っていたということを押さえておいたほうがいいと思います。
一方で、彼らの多くは働いていた職場に適応していきました。日本での経験を振り返って、「誰々さん」というように職場にいた日本人の名前を親しみを込めて挙げるイラン人がとても多いのです。大半が零細な会社や町工場だったため、密な人間関係が生まれたのだと思います。中には、強制送還されないようにと、イラン人と養子縁組までした雇用主もいました。
日本語ができないと仕事が見つからないため、日本語を一生懸命学んでとても上手になった人も多いのです。
――イラン人の入国者のピークは91年で、来日の波はごく短期間で終わりました。
イラン人が急に増えたため、92年にビザの免除協定が停止されて流入が止まり、非正規滞在の摘発も強化されました。
在日イラン人が急減した理由として、彼らの中にはそもそもそれほど長く日本に行くつもりがなかった既婚者が比較的多かったという事情も大きかったと思います。日本の景気が悪くなり始めた時期ではありましたが、私たちの聞き取りでは、失業を契機に帰国した人はわずか5%ほどで、半数が「家族のため」としています。イランでは家族のつながりが非常に強いのです。
イランでも日本の会員カードを財布に
――帰国後に、どういう思い…
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この記事を書いた人
- 山根祐作
- 国際報道部
- 専門・関心分野
- 国際情勢、日中関係、中国、在日外国人、語学