au Webポータル芸能ニュース
ドラマ『金田一少年の事件簿』などで活躍した古尾谷雅人さん(享年45)
ドラマ『北の国から』(フジテレビ系)が、今夏から全国各地の地上波で再放送され好評を得ている。初放送は1981年に始まり、その後、スペシャル版が何度も制作・放送されてきた本作だが、スペシャル版には人気俳優がゲスト出演してきた。俳優・古尾谷雅人さん(享年45)が『北の国から'87初恋』に1シーンだけ出演したことを、今も記憶するファンは多いだろう。
【思い出の写真を見る】俳優・古尾谷雅人さん(享年45)はどんな父親だったのか、微笑ましい家族写真や壮絶な親子関係のエピソード
古尾谷さんが2003年に命を絶って22年。長男で俳優の古尾谷雅さん(42)は、まもなく亡き父と同じ年齢になろうとしている。息子から見た俳優・古尾谷雅人さんはどんな父親だったのだろうか。雅さんが明かしたのは、壮絶な親子関係だった。名優の死を改めて悼む──。【前後編の前編】
「どこにでもいる普通のお父さん」
僕は幼い頃、父はどこにでもいる普通のお父さんだと思っていました。職業は俳優でテレビに出ている、とはわかっていましたが、特別だとは思っていなかったんです。授業参観や運動会など、僕の学校の行事によく参加してくれたし、家のテレビで映画鑑賞やスポーツ観戦もよく一緒にしていましたから。勉強を教えてくれたこともあります。母(女優の鹿沼絵里さん)は算数、社会が得意だった父は歴史を教えてくれました。
父はスポーツ全般が好きで、とくに野球が大好き、巨人の大ファンでした。同じ神奈川出身ということもあり、原辰徳さんが大好きで、長嶋茂雄さんや王貞治さんのことは神様のように思っていましたね。基本的に試合は録画しているのですが、負けた試合は観ず、勝った試合だけ観る(笑)。家にいてライブ放送が観られるときは、リビングでお酒を飲みながら観戦していました。巨人が試合に勝つと上機嫌。負けると大変。不機嫌になって、コップはテーブルにドン! と大きな音を立てて置くし、ドアの開け閉めも乱暴に。それだけ好きだったんですね。
家族で父の出演作を一緒に観ることもありました。『金田一少年の事件簿』(日本テレビ系)に剣持警部役で出演したときは、第一回目の放送前のビデオを「出来たてほやほやだよ~」と言って持ち帰り、家族みんなで観ました。出演前は「なんでアイドルと共演しなきゃいけないんだ」と嫌がっていたのに、実際に共演してみたら「若い子たちはスゴイ!」と、主演の堂本剛くんやともさかりえさんのことをとても褒めていました。
僕の3歳下の妹が剛くんのファンだったので、撮影現場に妹と一緒に連れて行ってもらったこともあります。ひとつのシーンを長い時間かけて撮っているのを見て、僕は「ドラマを作るのって大変なんだなあ」と思ったのを覚えています。
父の機嫌をうかがう日々
中学生になると、友だちのお父さんとくらべ、あれ、ちょっと普通のお父さんと違うのかな、と気付くようになりました。家にずっといる期間もあれば、ロケで長く家を空けることもあります。家にいるときも、リビングで台本を読んでずっとブツブツ言っていたりする。そんなとき、僕ら家族は気を遣って、あまり物音をたてず、近づかないようにもしていました。父は繊細で完璧主義な性格。台本は全部頭に入れて、徹底的に役を研究して現場に入っていたので、邪魔しちゃいけない、と思っていたんです。
優しいけれど、怖い人でもありました。僕の幼い頃の話ですが、父は絵を描くのが得意で、僕の大好きな『機動戦士ガンダム』の絵を描いてくれたことがありました。僕は大喜び。でも、子どもだからすぐに飽きちゃう。父の絵をソファの背に置いて、ソファに飛び乗ってはしゃぎ始め、絵がソファの背からハラリと落ちたとたん、父が激怒。「なんだおまえは!」と怒鳴られ、お尻に蹴りを入れられました。
それ以上は母が必死で父を止めてくれたんですけど、母いわく、父はその後、泣き出した僕と正座して向き合い「雅はいいなあ、守ってくれるお母さんがいて」と涙をポロポロこぼしたそうです。父は5歳のときに実のお母さんが家を出てしまい、その後、実父の再婚相手に育てられ、母親からの愛情に恵まれなかったから、"母親が必死に守ってくれる僕"を羨ましく思ったようです。
そうした生い立ちが影響したのかはわかりませんが、父は酔うと荒れるように、だんだんとなっていきました。よく覚えているのは、夜、ベッドの中で聞いていたエレベーターの音。僕は中学時代、バスケットボール部に入っていて、朝練があるので朝が早い。だから夜も早く床につき眠りたいのに、父が帰ってくる音に敏感になって、かえって目が冴えて眠れなくなったりしていたんです。
家の外のエレベーターが動き、父が降りてくる。そして、共用廊下を歩いてくる足音。それらを聞きながら、「今日の機嫌はどうなんだろう」とビクビクして……。打ち上げなどで酔って帰ってくると、ドアの鍵をガチャガチャと乱暴に開けて、母に昼間腹立たしかった出来事をぶちまけ、荒れたりするんです。
酔っていないときは優しいのに、酔うと豹変する──まるで"ジキルとハイド"のようで、荒れると、本当に怖かった。僕にひどい暴力を振るうことはなかったのですが、家中のものをメチャクチャにしてしまったり、壁に穴を開けたり。アルミ製のゴミ箱は大きくへこんでいました。母はそれらを「アートだ」と笑って耐えていました。父が荒れると、母はいつも僕と妹を、身体を張って守ってくれましたが、子どもだった僕はどうすることもできませんでした。
一度、父が包丁を持ちだしたときは、3人で家から逃げ出しました。同じマンションの別の階の友人を頼って行き、タクシー代を借りて母の実家に避難。父は翌日、酔いが覚めると優しい父に戻り謝ってくるので、僕らはまた家に戻りましたが、そんな日々が本当につらかった。僕はだんだん父を拒絶して避けて、あまり話をしなくなっていきました。
「お父さんが起きてこないの…」
父が亡くなった日のことを、忘れることはできません。父は僕が20歳のときに亡くなったのですが、僕は実践学園高校を卒業して立正大学に進み、俳優としても活動を始めて間もなくの頃でした。
当時、コンビニで夜勤のアルバイトをしていたので、朝帰宅して昼過ぎまで寝る、という生活で、その日もそんないつもの1日だと思っていました。ところが午後、外出していた母が帰宅すると僕を起こし「ねえ、お父さんが起きてこないの」と不安そうに言うんです。妹はバイトに出て留守にしていました。
僕は「寝ているだけじゃないの」と返しながらも、起き出してみると、リビングも廊下も妙に静か。母に背中を押されるように父の部屋の前に行き、ドアをソッと開けました。目の前のベッドの枕の上に、寝ているならあるはずの父の頭がない。電気をつけ、母がドアを大きく開けると、父の姿が目に飛び込んできました。人って目の前の情報量が多すぎると思考が止まっちゃうんですね。5秒くらいかかってからようやく状況がのみこめて、「やっちゃったよ……」という言葉が出てきました。そして、これからどうなるんだろう、という恐怖と不安ですごく落ち着かない気持ちになりました。
当時は父を拒絶して、あまり父と関わっていなかったので、僕は父の異変に気付けなかったのかもしれません。思い返せば、少し元気がなくなっていたようにも思います。亡くなった日の前日、アルバイトに出かける僕が、「行ってきます」と言ったとき、父は玄関まで来て見送ってくれて「行ってらっしゃい」と返してくれました。
そのときはそれを特別なこととは受け止めませんでしたが、結局、それが僕と父が交わした最後の言葉になりました。父が何に悩み、どんなことに苦しんでいたのか。もっとコミュニケーションをとって、父の話を聞いてあげれば良かった、という後悔が今も残っています。父との別れから22年、なぜ父が極端な選択をしたのか。そのときも、今も、僕にはわかりません。
* * * 続編では俳優・佐藤浩市が葬儀翌日に訪れて祭壇で誓った約束、長男・雅さんが出演したドラマ『ごくせん』(日本テレビ系)の思い出、俳優活動を続ける現在の生活などを語っている。
取材・文/中野裕子(ジャーナリスト) 撮影/岩松喜平