だから石破首相は「北方領土のほの字」も言わなくなった…安倍政権がプーチンに送った「致命的なシグナル」 北方領土問題は1956年時点まで後退した

どうして北方領土問題は遅々として進まないのか。前駐オーストラリア特命全権大使の山上信吾さんは「最大のミスは安倍政権下でロシアに『二島返還でも構わない』というシグナルを送ってしまったことだ。外務官僚は辞表を出してでも安倍総理を止めるべきだった」という――。

※本稿は、山上信吾『国家衰退を招いた日本外交の闇』(徳間書店)の一部を再編集したものです。

写真=共同通信社

会談に臨むロシアのプーチン大統領(左)と安倍元首相=2016年12月15日、山口県長門市

苦労にまみれた北方領土交渉

少し距離を置いて長い目で見てみれば、そもそも北方領土交渉には、関係者の苦労と涙にまみれた積年の歴史と経緯がある。

第二次大戦後に日ソの国交を回復したのが1956年の日ソ共同宣言だった。

そこには、「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国の要望にこたえかつ日本国の利益を考慮して、歯舞諸島及び色丹島を日本国に引き渡すことに同意する。ただし、これらの諸島は、日本国とソヴィエト社会主義共和国連邦との間の平和条約が締結された後に現実に引き渡されるものとする」との条項がある。

平和条約締結後の歯舞群島と色丹島の引き渡しを明記しているのである。

日ソ共同宣言では、これら二島の返還にしか言及がないが、歴史を紐解けば、日本こそがロシアに先んじて北方領土を発見・調査し、19世紀初めには歯舞、色丹のみならず国後、択捉を含む北方四島の実効支配を確立し、19世紀半ばまでに、択捉島とウルップ島との間に両国の国境が成立していたという事実がある。

具体的には、1855年に調印された日露通好条約第2条には、次の規定がある。「今より後日本国と魯西亜国との境『エトロプ島』と『ウルップ島』との間に在るへし『エトロプ』全島は日本に属し『ウルップ』全島夫より北の方『クリル』諸島は魯西亜に属す(後略)」。

北方四島は日本の領土であり続けた

その後、1875年に締結された「樺太千島交換条約」では、樺太全島がロシアに属することを認める一方で、千島列島中最北の「シュムシュ島」から前記の「ウルップ島」に至るまで18島の名前を明記しつつ、日本に譲ることを認めているのである。

すなわち、北方四島については常に日本の領土であり続けたのであり、一度たりとも他国の領土になったことがないのだ。まさに、「日本固有の領土」なのである。

こうした史実があるからこそ、歯舞諸島と色丹島の二島のみに言及している上記の条項を盛り込んだ日ソ共同宣言が作成された後であっても、東京宣言、クラスノヤルスク合意、川奈提案、イルクーツク声明等々、四島返還要求を貫くための苦労を重ねてきたのだ。それが戦後の日本外交の軌跡だった。

まさに、一歩一歩地歩を回復し、不法に占拠された領土を取り返していく、そうした努力の積み重ねだったのだ。


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ちなみに、二島返還で決着させることは、4分の2、すなわち50%のゲインでは決してないことを認識しておく必要がある。北方四島全体の面積は5000平方キロを超える。しかし、歯舞諸島と色丹島の面積は両者を合わせても350平方キロに過ぎない。四島全体の1割にも及ばないのだ。

外務省が国内広報用に2014年3月に作成した「北方領土」というパンフレットには、興味深い記述がある。

「択捉島は日本最大の離島でもあり、国後島は二番目に大きな離島です」

佐渡はもちろん、沖縄よりも大きいのだ。択捉、国後の意義がよく理解される記述だろう。そして、当時の外務省はそうした二島の重要性を十分に認識していたことを示してもいる。

面積だけの問題ではない。終戦時の人口を見ても、北方四島全体に1万7000人を超える日本人居住者がいた中で、国後、択捉にも合わせて1万人以上の日本人が暮らしていた。これらの人々が生まれ育った郷里からソ連兵によって武器をもって追われた不条理を正さなければならない話なのである。

写真=iStock.com/panchro gelatin

※写真はイメージです

「4」から始めるのと「2」から始めるのではまったく違う

加えて、ロシアの原潜が遊弋ゆうよくし米国本土をミサイルで狙える距離にあるオホーツク海。米ソ冷戦期にはソ連原潜の聖域と目されてきた水域だ。そのオホーツク海への出入口を扼やくする択捉、国後島の戦略的重要性は、火を見るよりも明らかだ。

むろん、領土交渉は相手があってのものだ。交渉担当者としては、日本の主張通り、四島がすべて返ってくるとのシナリオだけではなく、他のシナリオをも念頭に置きつつ頭の体操をしておくべきことは言を俟またない。同時に、「4」から始めて妥協点を探るのと、「2」で始めるのとでは、迫力も交渉上のポジションも全く変わってくることを踏まえなければならない。

実際、安倍政権の「柔軟な」までの交渉姿勢を見てとったロシアは、歯舞、色丹の二島についても、これは日本の主権を認めた上での「返還」ではなく、主権はロシアにあるという前提での「引き渡し」に過ぎないとの主張まで展開してきた。まさに、「二島返還」でさえ覚束なくなってしまっているのだ。


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1956年の共同宣言交渉時には、日本政府としてはシベリアに抑留されていた同胞の帰還、漁業交渉の妥結、国連加盟といった解決を迫られていた種々の急を要する課題があった。

こうした諸課題の解決と国交正常化を急いだからこそ、共同宣言に「択捉島」「国後島」の文言を盛り込めなかったもののまとめに走ったことは、多くの識者が指摘してきた通りだ。

換言すれば、日本側ははじめから四島一括返還の立場であったが、ソ連側が応じたのは歯舞、色丹の引き渡し提案であり、日本側は国後、択捉も要求したものの、結局物別れに終わった経緯がある。

であるが故に、その後、塗炭の苦しみと辛抱強い交渉を重ね、歯舞、色丹だけではなく、国後、択捉を含めた四島の帰属の問題が交渉のテーブルに乗っていることをロシア側に認めさせるまで押し返してきたのだ。

ロシアに領土問題を認めさせた東京宣言

領土交渉の歴史を簡単に振り返ってみよう。

1956年の日ソ共同宣言締結後、ソ連政府は長らく日ソ間での領土問題の存在さえ、認めようとしなかった。漸く1973年の田中角栄総理との首脳会談の際、ブレジネフ書記長は田中総理に迫られて領土問題の存在を口頭で認めた。しかしながら、ソ連政府が領土問題の存在を文書で認めるのは、1991年の両政府間の共同声明を待たなければならなかった。

こうした日本側の長年にわたる息の長い粘り強い働きかけの結果として得られたのが、1993年10月、エリツィン大統領訪日の際に合意された東京宣言だ。

ボリス・エリツィン氏(写真=大統領報道情報局/CC BY-4.0/Wikimedia Commons

同宣言は、四島の名前を明記し、領土問題がこれら四島の帰属の問題であるとの位置付けを明記した画期的なものだ。

そして、「この問題(領土問題)を歴史的・法的事実に立脚し、両国の間で合意の上作成された諸文書及び法と正義の原則を基礎として解決することにより平和条約を早期に締結するよう交渉を継続し、もって両国間の関係を完全に正常化すべきことに合意する」とまで規定させたのだ。

まさに、この規定こそは、日本固有の領土である北方四島が不法に占拠されているという「不正義」を解決する必要を明確に意識したものなのである。

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