だから国民は「愛子天皇」を待ち望む…専門家が指摘する「継ぐ者」に求められる何よりも重要な資質 宗教学者が提案する皇位継承安定化への一案

なぜ、愛子内親王の天皇即位が望まれているのか。『日本人にとって皇室とは何か』(プレジデント社)を上梓した島田裕巳さんは「男系男子での皇位継承を強く主張する保守派は、天皇の『資質』についての考察がまったくない」という――。

皇室に生まれるということと、伝統芸能の家に生まれるということの間には共通点がある。

一つには、「家」を継承していかなければならない重い責任が生じるということである。

皇室に生まれても、女性であれば、将来結婚し、皇室を離れる可能性はある。だが、まだ結婚していない間は、皇族としての務め、公務を果たさなければならない。

伝統芸能の家の場合も、特に重要な家に生まれれば、周囲から継承することを期待される。ここでは話を歌舞伎に限るが、宗家とされる市川團十郎家や、「團菊だんぎく」ということで対比される尾上菊五郎家に男子として生まれれば、将来團十郎や菊五郎を継ぐことを、赤ん坊の段階からどうしても期待される。

愛子内親王陛下(写真=外務省/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

もう一つの共通点は、どちらも「見られる」存在であるということである。

歌舞伎なら舞台に上がるわけだから当然だが、皇室の場合も、戦後、「開かれた皇室」ということが言われるようになり、国民の前に姿を現す機会が飛躍的に増えた。姿を現すだけではなく、時に「おことば」を発しなければならない。

愛子内親王も5月3日、災害医療に関する国際学会の開会式に出席し、参加した各国の研究者らを前にして、初めてあいさつをしている。その後には、大阪万国博の会場を2日にわたって訪れているが、そこでも注視の的だった。

歌舞伎界名門の襲名披露

その5月は、歌舞伎界にとって重要なものとなった。歌舞伎座の「團菊祭五月大歌舞伎」で、八代目尾上菊五郎と六代目尾上菊之助の襲名披露興行が営まれたからである。

團菊という呼ばれ方をするようになったのは、明治時代の名優、九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎のときからである。九代目團十郎は、歌舞伎の近代化に尽力し、「劇聖げきせい」と呼ばれた。五代目菊五郎は、江戸庶民の生活を描いた世話物を得意とした。

皇室の歴史に比べれば、歌舞伎の歴史は浅い。江戸時代の初めからだから、400年を超える程度である。ただ、明治以降、西洋から近代演劇が取り入れられ、それが「新劇」と呼ばれたのに対して、一時は「旧劇」として過去のもののような扱いをされたことがあった。

それでも、歌舞伎は生き延び、今日でも歌舞伎座のような大劇場をいっぱいにできるだけの集客力を誇っている。そこに至る上で、團菊の果たした役割はあまりに大きい。

したがって、團十郎や菊五郎を継ぐことは、恐ろしくプレッシャーのかかることである。

しかも、それぞれの家に生まれたからといって、必ず襲名できるわけではない。


Page 2

「京鹿子娘道成寺」は舞踊の大曲で、しかも女方の踊りである。六代目菊之助は、くり返しになるがわずか11歳で、しかもそれまで女方ではほとんど踊ったことはない。女方の踊りは、腰を折ったり、内股にしなければならず、難易度は格段に上がる。

ところが、六代目菊之助は、それを見事に踊りきったのだ。十分に動けない七代目菊五郎が出られないため、そこに人間国宝の坂東玉三郎が加わった。玉三郎と“新・菊五郎”は踊りでは定評がある。だが、どうしても目が行ってしまったのが“新・菊之助”だった。

私が座った席の横では、女性の観客が、六代目菊之助の踊りの巧みさに驚嘆していた。以前から歌舞伎通の間でも、その演技力は高く評価されていたが、踊りにこれだけの才能を発揮しようとは考えられていなかったのではないだろうか。

辛口で知られる歌舞伎評論家の渡辺保氏は、その劇評で「まだ少年なのに大健闘である」と述べていたが、私は11歳の少年の踊りに圧倒され、末恐ろしい気になっていた。これでは、襲名に文句をつける人間が出てくるはずもない。

大名跡を継ぐ資格とは何か

もちろん、六代目菊之助が天才振りを発揮したのは、音羽屋の血を引いているからである。尾上梅幸は昭和の名優六代目菊五郎の養子で、血がつながってはいないはずだが、実子説も根強くある。

「菊吉時代」の全盛期を築いた六代目尾上菊五郎(1885~1949)(写真=ベインニュースサービス/PD-Bain/Wikimedia Commons

しかも、六代目菊之助の母方の祖父は、平成時代の名優、二代目中村吉右衛門である。吉右衛門が亡くなって以降、そのファンは、丑之助時代からこの「少年」に篤い期待を寄せるようになっている。

こうした血の力は大きいが、それだけで大名跡を襲名できるわけではない。六代目菊五郎には、こちらは間違いない実子である二代目尾上九朗右衛門くろうえもんがいた。九朗右衛門が襲名してもおかしくはなかったはずなのだが、大名跡を継ぐにはふさわしくないと判断されたのではないだろうか。

それだけ「菊五郎」という名前には重みがあった。そこには六代目の功績が大きい。谷崎潤一郎の名作『細雪』でも、何としても六代目菊五郎の舞台を見なければという話が出てくる。私の父も、歌舞伎の愛好家で、私に対して「あんたにも六代目を見せたかった」と語っていた。

関連記事: