「世界の中心」という誇りと「何度も侵略された」被害者意識…イラン外交の理解に欠かせない“矛盾”の正体(ダイヤモンド・オンライン)
中東諸国のなかで、イランはしばしば周囲と異なる振る舞いを見せてきた。対米・対イスラエルの姿勢においても、アラブ諸国と歩調を合わせることは少ない。その違いはどこから生まれているのか。※本稿は、中東研究者の高橋和夫『イランとアメリカ、そしてイスラエル「ガザ以後」の中東』(朝日新聞出版)の一部を抜粋・編集したものです。 【この記事の画像を見る】 ● イラン人の自尊心を満たす 歴史の深さと広大な国土 イラン人には、古代から人類の文明を背負ってきたという自己認識がある。中国の指導者が好きな「歴史認識」との言葉を借りると、その歴史認識は、人類の文明をリードしてきたとの自負であり、誇りの背景にあるのはその輝かしい歴史である。 まず、その古さである。歴史の古い国と言えば中国がある。中国4000年の歴史という言葉をよく耳にする、と中国の友人に言ったら5000年だと訂正された。しかしイラン人は、その上を行く。イラン6000年の歴史と言う。 イランは古いばかりでなく大きい。イランの面積は広大である。その総面積は165万平方キロで、日本の4.4倍、フランスの3倍であり、アメリカと比べてもミシシッピー川以東の東部全体に匹敵する。 北ではアゼルバイジャン、アルメニア、トルクメニスタンと国境を接し、カスピ海をはさんでロシアに面している。南はペルシア湾とインド洋に面している。西はイラクとトルコと国境を接し、東はアフガニスタンとパキスタンが隣人である。 その人口規模も大きい。現在の人口は9000万を超える。これだけの人口規模の国家は中東では他には8500万人のトルコと1億1000万人のエジプトしかない。
ペルシア人の、つまりイラン人の祖先は、紀元前7世紀に歴史に姿を現す。ここではイラン人とペルシア人を、とりあえずは同じ意味の言葉として使っておこう。ペルシア人は現在のイラン中南部のファールス地方を生活空間とする人々であり、メディア王国に服属していた。 その後、紀元前6世紀、指導者キュロスの下でペルシア人は立ち上がり、オリエント全域を統合する大帝国を建設する。これがアケメネス朝ペルシア帝国である。現在のイランも広いが、歴史上のペルシア帝国は、さらに広大であった。 そして、3世紀には、ササン朝ペルシア帝国(226〜651年)が続いた。 ● アラブ人に征服されても アイデンティティーは持ち続けた その栄光のペルシア帝国を打ち破ったのがアラブ人たちだ。アラブ人とは、そもそもアラビア半島に生活していた人々である。その中の1人のムハンマドが神の啓示を受けイスラムという宗教を始め、その宗教を核にして爆発的な征服活動を始める。その帝国の支配地域は、東は大唐帝国にまでおよび、西はスペインやフランスにまで広がった。 帝国内部では、ゆっくりしたテンポで人々のイスラムへの改宗が起こり、アラビア語が広がった。アラビア語はヘブライ語などと同じセム語系の言葉に属する。多くの人々が、それまで話していた言葉に代えてアラビア語を使うようになった。そして、アラビア語を日常語とする人々の間で自分たちはアラブ人であるとの意識が広がった。 しかし、そのアラブ度には濃淡がある。アラビア半島の人々は、自分たちこそが純粋な元祖アラブ人だと誇っている。他の人々は、混血や征服によってアラブ化したに過ぎない。ところが逆にエジプトやイラクの人々は、自分たちこそ古代エジプトやメソポタミアの偉大な文明の継承者であると思い、アラビア半島の砂漠の民を見下しているようなところがある。アラブ人の間でも相互に微妙な感情が抱かれている。 ペルシア人もアラブ人に征服され、その宗教を受け入れた。しかし、自らの言語であるペルシア語を失うことはなかった。ペルシア語はアラビア文字で記される。しかもアラビア語の単語を多数取り入れている。しかし言語的には両言語は全くの別物である。