「引きこもり40年」57歳で社会復帰も…仕事や人間関係など試練の連続「働かんで不安になる。働いても不安になる」(ABEMA TIMES)|dメニューニュース
国近斉さん(62)
【映像】引きこもりに…高校生の頃の国近さん(写真あり)
山口県宇部市に住む国近斉さん(62)は、高校中退後、長い引きこもり生活を送っていた。55歳のとき、NPO法人に相談したことをきっかけに、自立支援を受けるようになり、2年後には就労も果たした。
しかし、約40年に渡る引きこもりのツケは大きく、様々な試練が待ち受けていた。実像が見えにくい「引きこもり」や「孤立・孤独」。国近さんの日々を見つめ、求められる支援を考える。
■40年の引きこもり生活、両親の死
国近斉さん50歳の頃、両親が相次ぎ死去
40年間引きこもっていた国近さん。「家にいても外に出てもなんか居心地が悪い。どうしてこんな気持ちになっちゃうんだろう。あまりに長すぎた。ボーっとした生活のツケなのだ」「このまま孤独死する」「やらなくちゃいけないことが山積しているのに、一歩足を踏み出せないでいる。時間は待ってくれないのに、ああ今日も一人切り、一人で焦り、一人で笑って、一人で泣いて…」(国近さんの日記より)
2024年6月、厚生労働省は全国の市町村職員を対象にした引こもり支援セミナーをオンラインで開催した。
山口大学大学院の山根俊恵教授は、山口県宇部市で引きこもり支援を行っている。「何もしないでただ待っていたら、10年、20年あっという間です。動ける安全な環境を作る、仕掛けて待つ、ということを私たちはやっています」(山根教授)
国近さんは、子供の頃から人付き合いが苦手だった。高校に入ると、勉強についていけなくなり2年で中退。約40年の引きこもり生活に入った。
「一人で食事したりとか、父や母に申し訳なかったけど、そういう生活が続きましたね。そうこうしているうちに、母が入院、体調を崩しましてね」(国近さん)
母親が亡くなった数年後、父親も急病で亡くなった。一人になった国近さんは、両親が遺した貯金を切り崩して生活していた。そうした日々の出来事や心境をノートにつづるようになった。
「家賃などを納めるたびに、通帳の残高が刻々と減っていくのがつらい」(国近さんの日記2016年8月26日)
「今までこんなに焦る気持ちなんてそんなになかったのに、ようやくことの重大さが広がってきたのだ」(同 2017年3月21日)
「昼日中、誰もが出かけて僕だけ部屋の中、過ごしていると、あれこれ考えて心が乱れる」( 同 2017年5月10日)
■「引きこもり相談」から57歳で社会復帰
ハウスクリーニングの仕事をする国近さん
55歳のとき、市の広報誌に載っていた「引きこもり相談」に目がとまった。
「体調は悪いは、不安が増すは、とうとうNPO法人に相談予約の電話をしてみた。どう対応して下さるのだろう」(国近さんの日記 2017年6月23日)
駆け込んだのは、山根教授が運営するNPO法人「ふらっとコミュニティ」だった。山根教授は「来なかったら、孤独死しているかもしれないからと思うから、家に行くよって言って。なので毎週来て下さいねと言って、来られ始めた」と当時を振り返る。
ふらっとコミュニティについて国近さんは、「いろいろ行事がありましてね。講座をやったりとか、いろいろなミーティングをしたり。時にはバレーボールのボールがふわふわなものでできていて、それをみんなでするとか。徐々に徐々に人との距離を取れるようになったかなあ」と語る。
通い始めて2年、国近さんに転機が訪れる。
「(仕事の)ご希望がありますか?どういうことならできそうとか希望はありますか?」(山根教授) 「そうですね、あんまり人と関わらなければいいなあ、なんてねぇ。ああ困ったなあ」(国近さん) 「人とあまりかかわらない仕事がいいということですよね」(山根教授)
「人の中にあまり入れないからやっぱり……」(国近さん)
そして、57歳のときにパートタイムでハウスクリーニングの仕事を始めた。
「仕事初日、エアコンと玄関の掃除を任された。失敗せず終えることができた」( 同 2019年6月12日)
「日中は掃除片づけで忙しくしているので感じないけど、夜テレビを消して静かになると、不安な気持ちになってくる。体力落ちたし、仕事はうまくいってないし、本当は仕事したくないし、心の中は引きこもりのときのまま。順調に進む人生、送れないのかな」( 同 2020年2月23日)
国近さんは働き始めてからも、ふらっとコミュニティに通っている。「僕は一人暮らしなもんでね、もう親戚も疎遠だし、知り合いもあんまりいないし、ですからここに来てつながってないとやっぱり何かあったときには困るなあと思ってここに来ている感じですかね」。
先輩のアドバイスのもとトイレ掃除の仕事に励んでいた国近さん。この日のことも日記に記されていた。
「疲れた、休憩も昼食時間もなく、あれやれこれやれで急かされて、こき使われてもう体が限界」( 同 2023年3月11日)
■「身元引受人がいない」市営住宅で立ち退きを迫られ…
国近さんが住む市営住宅
そんな中、国近さんのもとに市営アパートの担当者から電話がかかってくる。
「連帯保証人とか いろいろな書類を提出して下さいと、書類を頂いたんですけど、連帯保証人の欄が埋まらないんですよ。なって下さる人がいないんですよ、私には……。身元引受人という人もいないし、親戚も疎遠になっちゃってるし」(国近さん)
国近さんは市営アパートに住んでいるが、入居を認められていなかったのだ。公営住宅への入居権は原則、親から子へと引き継ぐことができない。入居希望者の公平性を図るためとして、国土交通省がガイドラインを示しているのだ。親が死亡した後も住み続けることができるのは60歳以上の人や障害者などに限られている。国近さんも父親が死亡すると、アパートからの立ち退きを迫られた。
それ以来、不正入居の状態となり、家賃が2倍以上(7800円から1万5000円・年度により異なる)に引き上げられた。
2022年、60歳になり、 入居が可能となったが新たな問題が浮上する。契約には連帯保証人が必要だったのだ。
さらに、市営アパートの家賃は収入によって決まるため、入居者は毎年、市に収入を申告しなければならない。しかし、国近さんは死亡した父親の弘さんが契約者になっているため、収入申告書を提出できずにいた。
「(収入申告書を)出しても、僕の収入だけでは受け取ってくれないし、(父は)死んで、いないのに収入なんてなんですもんね」「連帯保証人が どうしてもみつからないので、何か方法がないですかというのを聞きに行かないといけません」(国近さん)
そこで国近さんは、宇部市役所に足を運んだ。「また書類を渡されました。親戚の名前を書いて、どうしても支援ができない、連絡が取れないということを書いてもらって。父の戸籍、僕の戸籍かな……。これと一緒に提出してもらう」。
国近さんは、うまく説明できていないようだった。相談する内容を整理して、もう一度、窓口に向かった。連絡が取れる親戚がおらず、連帯保証人を頼める人がいないこと。市営アパートを出ると、他に住む場所がないことなどを伝えた。
「市役所へ行って、名義変更の手続きを一応終えることができた。身元引受人の署名がまだだけど」(国近さんの日記 2023年3月16日)
連帯保証人の免除が認められ、ようやく入居者になることができた。家賃も正規の料金に戻り、およそ1万円下がった。代わりに「身元引受人」の届け出を求められた。「身元引受人」には入居者が死亡した後の手続きが求められる。国近さんはまだ身元引受人を見つけられていない。
「この食パンも120(円)なんぼだったのに、今170(円)なんぼだから。上がりましたね。シイタケも今日は高かったから、半額のを買いました。電気とかあんまりガスは使わないようにとはしてますけど。うちはエアコンないんでね、まあ、その分はいいと思うんですけど」(国近さん)
記録的な猛暑が続く夏のことだった。国近さんの暮らすアパートである出来事があった。「僕と同じ一人暮らしの人。だいぶ前、30年くらい前かな、両親と3人で住まわれていた人。それが次々に亡くなって。なんか僕みたいな感じなんですよね。8月の台風が来た時点から、お隣に住んでいる人が魚の腐ったようなにおいがする、変なにおいがするって言って。自治会長さんに何かあったのかもしれないと届けて、そして14日に発見された」(国近さん)
「8月14日、近所の人が部屋で亡くなっていたのが発見された。彼の境遇は僕とまったく一緒、僕もいずれはと思うと、胸が締め付けられた」( 同 2023年8月14日)
■仕事や人間関係などの試練、将来への不安
山根教授、国近さん
ハウスクリーニングの仕事を続けている国近さん。ある日の日記には、上司とのやり取りについて書かれていた。
「同僚と仕上げ作業のとき、何が気に食わなかったのか、私があなたの上司、私がここの仕事を取ってきた、あなたはただのアルバイト、社会保障も払ってないでしょ。今まで一緒に仕事をしてきた仲間に対してひどいね。言葉もない」(国近さんの日記 2024年2月26日)
そんなある日、ふらっとコミュニティに来ていた国近さんに山根教授が声をかけていた。
「どうですか?5年勤めてみて?」(山根教授) 「そうですねぇ、どうだろう?危ないとき(辞めようと思うとき)もあるし」(国近さん) 「『できんやったら、どうにかせいやあ』とか、キャッキャッキャッキャ言われたんよ。僕ももう頭に来てね、『もう辞めます、今から辞めますって』って言って、帰ったんよ」(国近さん) 「初めてじゃない、そんな『辞めます』って国近さんが言い返したのは、今まで我慢していたのに」(山根教授) 「そうやねえ、ないね。また新しい所に勤めるわけにもいかんしね」(国近さん) 「人間関係も仕事も。もう気になることばっかりじゃけえ。だいぶ前から嫌なことばかり。」(国近さん) 「嫌なことという出来事に対して感じるのか、先々の不安でそう思うのかはどっち?」(山根教授) 「両方やね…。先々どうなるか分からんし、もしケガでもしたら、どうなるんだろうと」(国近さん)
「まあ、でも一人だからね。不安になるよね。とりあえず困ったときは言ってきてね。なんか一緒に考えられるし。何とかなるから、何とかするから」(山根教授)
「不安は付き物ですから仕方ないですけどね。働かんで不安になる。働いても不安になる。まあ、それは仕方ないですわ。それは折り合いを付けないとね」(国近さん)
2024年春、国近さんはこれまで勤めた会社を辞め、別の清掃会社で働き始めた。就労から5年、国近さんは自身の心境の変化について「生きていてもいいんだとか、そんな感じですかね。社会の一員として、底辺でもいいから引っかかっておきたいな」と語った。
2024年7月、宇部市では花火大会が行われていた。「午前中は昨日の仕事の続きでまた汗びっしょり。そのご褒美って感じで今夜宇部の花火大会で大きな花が咲いているのを部屋の窓から見ることができた。また来年もその先もこんな感じで見続けられたらいいと思う」( 同 2024年7月27日)
2024年8月、国近さんに新たな変化があったという。「7月21日、お寺さんが来た。お父ちゃんの法要、お母ちゃんのも一緒に合わせて。年にいっぺん来られるんですよ。その時にね、僕は身元(引受人)がいないからと言ったら、うちがなってもいいですよと言ってくれました。そういうことになりそうなときはお寺さんに頼みますわ」(国近さん)
(山口朝日放送制作 テレメンタリー『独白 ~引きこもり40年、それから...~』より)
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