日航機墜落 御巣鷹の尾根に眠る乗務員のいとこの思いを継いだパイロット「プロとして空の安全を守り続けたい : 読売新聞
日本航空機墜落事故では、乗務員15人も犠牲となった。一般企業からの転職を経て、念願の客室乗務員となった藤田香さん(当時28歳)もその一人だ。航空会社「トキエア」で操縦かんを握る、いとこの田中 栄(ひさし) さん(58)は、乗客に寄り添い続けた姿を追い、機長として空の安全を守ってきた。
アシスタント・パーサーだったいとこの名がニュースに
――香さんが事故機に乗っていたことをどう知ったのか。
事故をきっかけにパイロットになった田中栄機長1985年8月12日は慶大に進学して初めての夏休み中で、実家のある三重県に帰省していました。テレビのニュースで事故のことを知り、香ちゃんが国内線勤務だったことを聞いていたので、「まさか……」と思って注視していると、乗務員の一覧に名前がありました。すぐ近所にあった伯父・伯母の家に駆けつけました。
翌日には生存者発見のニュースもありましたが、アシスタント・パーサーだった香ちゃんの座席位置は前方だったため、生存の可能性が低いであろうことは覚悟していました。遺体の一部が確認されたのは約2週間後のことです。ひつぎに新しい制服を入れ、日航の同僚も参列して葬儀が行われました。ただ、香ちゃんが亡くなったという実感は湧きませんでした。
最後の会話「また今度会おうね」
――香さんはどんな人だったのか。
年齢は10歳上で、いつも華やかな自慢のいとこでした。実家同士が近く、香ちゃんが帰省する度に会いに行っていました。「仕事が楽しくてしょうがない」といつも話していたのが印象に残っています。夢をかなえること、仕事を生きがいにすることに憧れるようになったのも香ちゃんの影響が大きかったです。
事故で犠牲になった藤田香さん=遺族提供私が高校生の時には、客室乗務員を目指す同級生宛てに、手紙を書いてもらったことがありました。仕事内容のほかに、「頑張ってね。待ってるよ」というメッセージも添えてもらいました。「何を書かされてるの」と笑いながらも、ちゃんと書いてくれましたね。
事故の1か月ほど前、香ちゃんが横浜市にあった私の下宿先に電話をかけてきました。東京ディズニーランドに一緒に行く予定だったのに、急きょ仕事でこられなくなり、気にしてくれたようです。「ひーちゃん、一緒に行けなくてごめん。大学生はどう? また今度会おうね」。この時に10分ほど話したのが香ちゃんとの最後の会話です。
写真に残る最後まで乗客を守ろうとしていた姿
――思いを受け継ぎ、パイロットになることを決意した。
事故機が墜落する直前、客席の間に立って乗客に酸素マスクのつけ方を指導して回る客室乗務員の姿を収めた写真を見る機会がありました。最後まで乗客を守ろうとしていた姿を誇りに思いました。香ちゃんも乗客に寄り添い続けたはずで、思いを受け継ぎ、空の安全を守るプロになろうと、パイロットになることを決意しました。
遺族によって公開された墜落前の日本航空機内の様子両親に内緒で受験した航空大学校に合格し、慶大を中退することを父に伝えた時は大反対されました。「決して命を落とすようなことはいたしません」などと念書をしたため、何とか納得してもらいました。
――1991年に日本エアシステム(当時)に入社し、パイロットの道を歩み始めた。
いくらリスクを想定しても、自然相手なので想定外のことが起きる。パイロットとして操縦かんを握って分かったことです。飛行中の様々な状況を無事に乗り越えてエンジンを切った後、香ちゃんが見守ってくれているように感じたこともあります。
日航の機長を務めていた時の田中さん(2010年頃撮影)=本人提供日航と合併後の2010年8月、日航機長として事故機と同じ時間帯に、羽田―大阪便を運航することがありました。ここで操縦できなくなったのだろうな――。乗客乗務員を守れなかった機長らの無念を感じるとともに、無事に着陸できた時は、感謝の意を込めて、心の中で亡くなった方々に手を合わせました。
墜落現場となった「御巣鷹の尾根」(群馬県上野村)を最初に訪れたのは、事故から10年ほど経過してからです。妻と結婚する前に登り、香ちゃんの墓標に白ワインを供えて、「副操縦士になり、空の安全を守っているよ」などと報告しました。以来、子どもも連れて登り近況を伝え、墓標が一緒に並んでいる他の乗務員の方々の 冥福(めいふく) を祈っています。今年も登りたいと思っています。
どんな想定外のことがあっても
――パイロットとしての年齢上限の68歳まで、残り10年。
空の世界に100%の安全はありません。だからこそ、パイロットとしての能力を高め続けて100%に近づけ、安全に運航し、お客様に満足してもらうことに生きがいを感じています。
機長の仕事は機体、乗務員たち、自分自身をコントロールすることです。どんな想定外のことがあっても対処できるよう訓練を重ね、プロとして空の安全を守り続けたいと思います。(聞き手・石原宗明)
たなか・ひさし 1967年生まれ。91年、日本エアシステム(当時)に入社して副操縦士となり、2001年に機長に昇格。22年からは新潟を拠点とするトキエアで勤務している。
航空各社、事故の風化を防ぐ取り組み
航空各社では、事故の教訓を社員が受け継ぎ、風化を防ぐ取り組みを進めている。
日本航空は、ジャンボ機墜落事故の犠牲者の遺品や残存機体を展示する「安全啓発センター」(東京都)を2006年に開設。センターでの研修に加え、入社3年以内、10年目、管理職昇格時に「御巣鷹の尾根」(群馬県)を訪れ、安全研修と慰霊登山を行う。
ANAグループも、1971年に岩手県雫石町上空で自衛隊機と衝突した機体の一部などを展示した「安全教育センター」(東京都)を2007年に設け、社員教育に活用している。
両センターは一般見学もできる。