だから予約殺到で「43年待ち」に…1日200個しか作れない「神戸牛コロッケ」に懸けた精肉店主の執念 「赤字でも続ける」職人のこだわりの理由とは
兵庫県高砂市の老舗精肉店「旭屋」が手がける神戸牛コロッケは、全国から注文が殺到する人気商品だ。出荷予定は2068年。1日200個しか作れず、生産が間に合わないという。しかも作れば作るほど赤字。そんな異色のコロッケはなぜ生まれたのか。3代目店主・新田滋さんに、インタビューライターの池田アユリさんが迫る。
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3代目店主・新田滋さん
「43年待ち」――。この信じられない数字が指し示すのは、兵庫県高砂市にある老舗精肉店「旭屋」の「神戸ビーフコロッケ 極み(以下、極みコロッケ)」だ。
最高級A5等級の3歳雌牛の神戸牛と地元産の「レッドアンデス」種のジャガイモを贅沢に使った逸品である。
実際に食べた人からは、
「待つだけの価値はある!」 「普段食べるコロッケとは思えないような高級肉が入ってる」
「今まで食べたコロッケの中でダントツ美味しい」
との口コミが上がっている。オンライン通販のみで販売され、1日わずか200個の限定生産で続くこのコロッケは、その待ち期間を更新し続けている。
同商品の開発秘話を聞くべく、私は兵庫県高砂市にある旭屋の本店に向かった。
写真提供=旭屋
「神戸ビーフコロッケ 極み」(現在は5個入りで2700円)この商品の注文はオンライン通販のみ
店を訪れると、このコロッケを開発した3代目店主・新田滋さんがバックヤードで牛肉を切っていた。筋張った腕で丁寧に牛肉を扱う姿は料理人にも見える。
作業を終えた新田さんが、歩いて数分のところにあるコロッケの製造場を案内してくれた。
肉を売るために始めたが、コロッケが一人歩き…
製造場の中に入ると、2名の白い作業着を着たスタッフが取り組んでいた。極みコロッケを含む数種類のコロッケが、ここで作られているという。1日寝かしたコロッケの種を、専用の衣をつける機械へ通し、スタッフが一つずつ丁寧につけ直していた。
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本店から歩いて数分の場所にある、コロッケの製造場。閉店した飲食店を借り受け、改修したそうだ
製造場の2階にある休憩室で、インタビューが始まった。私が「43年待ちって、途方もない年月ですね」と感想を伝えると、今年の10月で61歳になる新田さんは切れ長の目元に笑いジワを寄せながら語った。
「肉を売りたかったので、コロッケは足掛かりでええと思ったんです。それが、あっという間に一人歩きしてしまって……」
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兵庫県高砂市に店を構える老舗精肉店「旭屋」
なぜ、地方の小さな精肉店で作られるコロッケがこれほどまでに人々を惹きつけ、半世紀近くもの「待ち時間」を生み出したのだろうか――。
この信じられない数字の裏には、父から受け継いだ「客の顔を覚える」という泥臭い商売スタイルと、誰もが諦めてしまうような経営危機を乗り越えた執念の物語があった。
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カットした牛肉をトレイに並べる新田さん
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旭屋は2026年で創業100年を迎える(戦時中の2年間は休業)。この間、何度も経営危機を乗り越えてきた。1996年のO-157問題や2001年のBSE(牛海綿状脳症)による風評被害、そして直近ではコロナ禍。それだけではない。新田さんが家業を継いだ頃、大型店舗規制法の改正によりイオンなどの大型スーパーが台頭し、価格競争が激化していた。旭屋の売り上げも下降傾向にあった。
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インタビューを受ける新田さん
この状況を受けて、新田さんはスーパーとの差別化を図るため、高価な神戸ビーフに特化し、売れ筋の惣菜に力を入れるべきだと思った。
そう感じてはいたものの、打ち手がなかった。その時、趣味でホームページを作っている知り合いの包丁販売店の社長がこう提案してきた。
「10万円できれい作ったるよ。ネットでお肉、売ったらどうや?」
新田さんは「そんなんで売れんのかいな」と半信半疑な思いを抱いたが、物は試しとホームページ作りを頼むことにした。完成から3カ月後、Yahoo!検索で上位に表示されるようになり、新田さんは驚いた。そこから、北陸や種子島などの離島からの注文が、ぽつりぽつりと入るようになった。1999年の秋、こうしてオンライン通販がはじまった。
通販の可能性を感じた新田さんはさらに力を入れる。だが、注文客はほとんどが個人客。パソコンはブラウン管モニターの時代である。あるかないかもわからない店に、客が100g3000円以上する高級肉を注文するのかと思い悩んだ。
そこで一つのアイデアが浮かぶ。
「お試しで神戸牛を楽しめて、お店のコンセプトを詰めた商品を作ろう」。この“お試し”戦略が、「極みコロッケ」の生まれるきっかけとなった。この時はまだ、自分の作ったコロッケを何十年も待つ人が日本各地で増えることになろうとは夢にも思わなかった。
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冷蔵庫で1日寝かした「極みコロッケ」
徹底した地元産の食材へのこだわり
極みコロッケには、新田さんの職人気質なこだわりが詰まっている。
コロッケに使う牛肩ロースはサイコロ状にカットして贅沢に入れる。揚げた時に出る肉の旨みと柔らかい食感がジャガイモに染み込む相乗効果を狙っているという。
次はジャガイモ。神戸牛は旨味が強いのが特徴だ。それに負けない味や食感のあるジャガイモが不可欠だった。
「うちの店のコンセプトは初代の頃から変わらず、『顔の知らん人が作ったものは売りません』、『地元の物しか売りません』だったので。市場でジャガイモ仕入れて……という作り方じゃなくて、チームで作ろうと思ったんです」
新田さんが選んだのは甘味の強い「レッドアンデス」だった。しかし、この品種は北海道でしか作っておらず、コロッケを年中売ろうと思ったら二期作をしている農家から取り寄せねばならなかった。
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旭屋のはじまりは大正15年(1926年)。石川県金沢市出身の祖父が、祖母と駆け落ちし、神戸の肉屋で修業を始めた。その後、競合店のいない地域を求め、高砂市に「旭屋」の看板を立てた。
海岸沿いの工業地帯であるこの町は、夕方5時頃になると、工場で働く人やその家族がひっきりなしに店を出入りした。肉だけでなく、夕食の1品になるサラダや、注文を受けてから揚げるとんかつが飛ぶように売れた。
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本店の最寄り駅である伊保駅
新田さんが店を継ぐことになったのは30歳の時。当時、東京の大手宅配会社で手取りが100万円を超え、昇進の話が出ていたというほど、順調なサラリーマン生活を送っていた。
ある時、東京に遊びに来た妹から「お父さんが帰ってこいって言ってるで」と聞かされた。どうやら父の体調が芳しくなく、「店を継いでほしい」と言っているという。
まずは様子を見に行こうと実家に帰ると、父はすでに新田さんが通えるように食肉学校の入学手続きを済ませていた。いずれは戻るかもしれないとは考えていたが、これほど急な展開は予想外だった。
「まだ退職届も出してへんのに!」と思いながらも、跡を継ぐ準備を始めた。
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「旭屋」本店の店内
常連客の好みを知り尽くした父
食肉学校で1年間肉の基礎を学んだ新田さんは、その後正式に家業を継ぎ、肉の捌き方や客の対応など学びながら店を切り盛りする日々が始まった。父は休む日もあったが、新田さんとともに店頭に立った。父の仕事ぶりを見て一番驚いたのは、客からの過去の要望をすべて覚えていることだった。
例えば、常連客の女性が店にやってきて「今日は東京から息子が帰ってくるの」と言う。すると、父はすべてを理解して戸惑うことなく、赤身肉の準備を始めるのだ。父は客だけでなく、その家族の好みの肉の部位まで暗記していた。
「あそこに行って買えば、これが出てくるから楽やわ」 「知ってる人が出してくれるから、(味も素材も)間違いない」
そうした客からの声に、新田さんは唸った。
「混んでいる時に、『おい親父。いつものやつ、切ってくれ』とわざとカッコつけたがるお客さんもいて。周りのお客さんは『この人、常連さんなんや』と。けど、その人は年に2回くらいしか来ない(笑)。それをステータスに感じてくれてたんでしょうね。父は商売上手でした」
新田さんも常連客を覚えようと、エプロンにノートを忍ばせ、客の情報を逐一メモするようになった。「ホンダのバイクで赤いヘルメットのおばちゃんは何を買うかとか、ようメモ取ってました。でも、バイクとヘルメットが変わって、誰かわからなくなった。結局、名前覚えるのが一番早いですね」と新田さんは笑う。
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地元の食材で作ることにこだわる新田さんは、車で1時間ほど離れた西脇市で牧場を営む知り合いに、ジャガイモの栽培を頼み込む。
「『じゃあ、苗を持ってこい』と引き受けてくれたんですが、『農薬や石灰、除草剤を使ったらあかん』って言ったら、『おまえ……わしを殺す気か?』って言われましたわ(笑)。それでも『ぼけへんためにも、ここの畑1枚分(1区画)でいいから』とお願いしました」
そこからジャガイモづくりの輪は、少しずつ広がっていく。「わし一人ではムリや」と言う牧場主のつてもあり、高砂市や姫路市の農家が生産を引き受けてくれるようになった。
近隣の淡路には、特産の玉ねぎがある。その苗を地元の農家に持っていき、生産を頼んだ。コロッケの材料はこうして出そろった。
1日200個しか「作れない」
「極みコロッケ」の秘密は、食材へのこだわりだけではない。新田さんが考え抜いた手間暇のかかる工夫にある。
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冷蔵庫で追熟した「レッドアンデス」
例えばジャガイモ。糖度が高い「レッドアンデス」を収穫し、そこから3カ月間冷蔵庫で追熟させてさらに糖度を上げる。
皮むきは蒸した直後、ホクホクの状態で必ず人の手で行う。新田さん曰く、「ジャガイモの芋と皮の間に薄皮というのがあって、ここが一番美味しい」という。自動の皮むき器では、薄皮は皮ごと削られてしまうから使わない。玉ねぎもフードカッターで一気に切ってしまうと、素材の味が損なわれてしまうから使わない。
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蒸したてのジャガイモ
冒頭で述べたように、このコロッケは1日200個しか作らない。より厳密に言えば、200しか作れないのだ。これらの話を聞いて、大量生産が難しい理由に頷けた。過去に製造委託を試みたこともあったが、工場では手作業の工程が再現できず、味が大幅に落ちてしまったため断念したという。
「原材料も調味料も1gも変わらないんですけど、食べたら全然違う。担当した工場長もびっくりしていました。『なんでこんなに違うんやろうね』って。ジャガイモを蒸す。熱いうちに手で皮を剥く。タマネギは手でみじん切りにする。それを飴色になるまで炒める。この作業はやっぱりもう工場でできひん」
「売れれば売れるほど赤字」の戦略
いくら素材にこだわっても、認知されなければ商品は売れない。このコロッケが、いかにして多くの人々に知られることになったのか。人気に火をつけたのは、2003年に神戸新聞に掲載された記事だった。
新田さんは、農家に対し「ジャガイモの栽培に牛糞ぎゅうふんの肥料を使用するのはどうか?」と勧めた。そのおかげで、ジャガイモが良く育った。その茎はいずれ牛の餌になるため、循環が生み出されることに注目した記事だった。
すると、このユニークな取り組みがマスコミ各社の目に留まる。全国ネットのテレビ放送で紹介されると「極みコロッケ」は瞬く間に5年、6年待ちとなり、放送後には10年待ちとなった。
「原材料を出し惜しみしちゃいけない」と語る新田さん。発売当時の原価は400円だったが、販売価格を300円に設定。売れれば売れるほど赤字だが、彼なりの戦略だった。
「また注文してもらおうと思ったら、一口食べた瞬間に『めちゃくちゃ美味い!』ってならなあきません。このコロッケを食べてもらったら、次は一緒に肉の注文が来るって確信しとったんです。結果的に、半数の方がコロッケとともに牛肉をリピートしてくれました」
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いままで通りの商売が通用しなくなっている。新田さんはインタビューで「ある程度採算取れるようになったら、もう(極みコロッケを)やめようかなと思うてます」と率直な苦悩をのぞかせた。それでも心折れずに店を続けているのはなぜか。
「地元で牛を飼ってる人やその子どもとよく飲みに行くんです。『この子が今こういう気持ちで育てた牛なんだな』とか、『このおっさんがええエサで、ええ環境で育てた豚なんや』とかね、よう知ってるから。こういう人の気持ちを、どうやってダイレクトに消費者に伝えるかというのが僕らの仕事だと思っているから。それを一生懸命やることで、利益は後でついてくるやろうと思ってます」
精肉店が生産者と消費者をつないでいる。そんな新田さんの自負を感じた。
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店頭に立つ新田さん
取材中に気になったことがある。新田さんに休日はあるのだろうか。午前中は本店、午後は神戸の2号店、日によって精肉市場の競りに自ら向かう。
「僕は休めないですね。引退したらゆっくり旅をしたい」というが、それはもう少し先になりそうだという。お盆をひかえたこの日、ふと思い出したように、彼はこう語った。
「お盆の時期はね、懐かしいお客さんに会えるんです。昔、汗臭いグローブ持ってコロッケ買いに来てた野球部の子が、大人になって『おっちゃん、覚えてくれとんの?』って来て。『どうしてもここの味が忘れられへんかった』って言うんです。長い商売やってると、そういうのがあるんやなぁと。だから、部活帰りのチャリンコで店に寄ってくる子らは大事にしないとって思う。将来のお客さんやからね」
またあのコロッケが食べたい――。そう思わせる商品を生んだ新田さんは、どこまでも「食」と「人」を愛していた。
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コロッケを揚げる新田さん