69歳で医師に合格「東大工学部卒→メーカー勤続35年」のエリートを早期退職&学び直しに向かわせた“決断の芽”(東洋経済オンライン)
大阪の機械メーカーでディーゼルエンジンの研究開発に35年間従事した後、57歳で早期退職。 医学部編入試験に4年間挑戦し、61歳で金沢大学医学部に合格。国家試験を3度不合格になるも4度目で合格し、現在は総合診療専攻医として働く伊藤昌広さんにお話を伺いました。 現役の受験では浪人を経験せず、順当に東京大学に進学した伊藤さんは、医学部の受験をするようになってから、初めて浪人を経験します。 挫折の中でも、諦めずに受験し続けた背景には、予備校の先生にもらった言葉がありました。
還暦近くなってから4年の編入試験の浪人と、3年の国家試験の浪人を経験した伊藤さんに、その人生の歩みを伺います。 ■東大工学部を卒業後、エンジン開発35年 伊藤さんは1953年5月、兵庫県西宮市に生まれました。一人っ子として育ち、同居していた祖母に厳しくも可愛がられた幼少期。性格は「曲がってはいなかったと思う」と語るように、友人も多い青春時代を送ります。 飛行機に関わる仕事への憧れを幼い頃から持ち続けていたこともあり、航空系の進路に進めたらいいなと考えていました。
中高一貫の進学校である甲陽学院中学校・高等学校を卒業した伊藤さんは、現役で東京大学理科一類に合格。3年次進学時に工学部航空学科を選び、目標へ向けてつき進みます。 しかし、残念ながら、目標としていた航空会社への就職はかないませんでした。 「当時はオイルショック後の不況で、航空会社の採用が極めて少ない状態でした。どこの会社も採用人数は全国で数名くらいだったと思います。大学院に進学してもう一回航空会社を受けることも考えたのですが、父親に『早く関西に帰ってきてほしい』と言われたこともあり、大学院進学はせず、大阪に本社を置く機械メーカーに入社しました」
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国公立大学の医学部編入試験は全国で26校ほどが実施しており、大阪大・滋賀医大を中心に受け続けました。1次試験を通過すると各大学で2次面接があるため、受験料に交通費と宿泊費を含めると年間100万円近い費用がかかりました。 それでも9時に予備校に行き、1日7〜8時間程度の勉強をずっと続けたこともあり、成績は着実に伸びていきました。そしてついに受験を始めてから4年目、61歳で金沢大学医学部への2年次編入が決まりました。
57歳で、人生初めての浪人生活を経験した伊藤さん。浪人してよかったことをお聞きすると、「仲間との出会い」、頑張れた理由を聞くと、「医師になるという思いがあったから」「予備校の先生の言葉のおかげ」と答えてくれました。 「同じように医師を目指す仲間が何人もできました。看護師さん、薬剤師さん、理学療法士さん、消防士さん、鍼灸師さんなど、本当にさまざまな職業の方が、仕事を辞めて、あるいは仕事を続けながら勉強されていました。
予備校に通っての勉強はかなりくたびれましたが、先生がおっしゃっていた『翌年に受かる人もいれば10年先になる人もいるけれど、受け続ける限りは必ず受かります』という言葉は今でもとても印象に残っています。 周りを見ていても、早い遅いはあれど、勉強を続けた人は必ず受かっていました。それを信じられたから、毎年続けることができました。今でも、予備校で知り合った方々とは連絡を取り合っています。鹿児島・沖縄・青森・高知とバラバラの大学に進んでも、みんな同じ時期に志を持って勉強した同志です」
61歳で金沢大学に2年次編入した伊藤さん。医学部に入ってからは120人弱の同級生の中には、編入生以外に再受験生も5〜6人いました。「大抵は20代後半から30代で、私は一番年長だった」と語ります。部活もやってみたいと思ったそうですが、難しかったそうです。 「前の大学では少林寺拳法部に4年間いたので、金沢大学でも部活をしたいなと思い、水泳部の歓迎コンパに参加しましたが、後で『定員が一杯なので遠慮してほしい』と部の主将に言われました。年齢で敬遠されたのかもしれません。
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伊藤さんが会社で配属されたのはディーゼルエンジンの研究・商品開発部門でした。以来、農業機械・建設機械・産業機械に搭載するエンジンの開発を担当し、途中3年半の品質保証部門勤務もありましたが35年間、一貫してエンジン開発に携わり続けました。 ■3人の子どもが高校に入学するのを見届けて57歳で退職 そんな伊藤さんは、定年目前の57歳で早期退職を決めます。その決断の芽は、退職の約10年前から育ち始めていました。
「私自身が頸椎症があって、ずっと鍼灸の先生のところに通院していたんです。その先生に頸椎症を治していただいたのですが、この仕事は人の役に立つ仕事だなと感じていました。だから、最初は鍼灸師になろうかと考えていました。 ただ、退職するまでの10年の間に、鍼灸師もいいけど、医師のほうが患者さんのためにできることがもっと多いなと考えたんです。鍼灸師だと投薬も手術もできないし、日本では、東洋医学は西洋医学に対してできることの制限があることもあり、医師になってから鍼灸の仕事をしたくなってもできるから、医師になろうと思いました」
当時すでに3人の子どもがいた伊藤さんは、奥さんと相談して、末の子の学費がかかる間は退職できなかったものの、1番下の子が高校に入ったのを機に編入受験の勉強を始める許しが出たので、57歳で早期退職を決断しました。 伊藤さんが医学部への道として選んだのは、一般入試ではなく編入試験でした。 「一からたくさんの科目を勉強し直すのはしんどいと思いました。編入試験は年間で5人くらいしか採らない学校が多く、パイは少ないですが、科目が絞られるし、そのほうが自分には合っていると思いました」
こう考えて、新大阪にある医学部編入に特化した予備校・河合塾KALSに入学。映像教材を中心に学びながら、2年目から国公立大学を受験し続けます。 「国立・公立の他に私学もいろいろあるけど、資金がないので、ぜひとも国立に受かりたいと思っていました。最初の1年目は、教材をこなすだけでどこも受験しなかったのですが、2年目から最大10校くらい、あちこちの大学を受験するようになりました」 ■61歳で金沢大学医学部に合格
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ただ、幸い近所にスイミングスクールがあって、そこに入会してから毎週、卒業するまで通えたのは良かったです。40〜60代の方々がいて、そちらでいろいろ仲良くしていただいたのもいい思い出になりました」 ■国家試験3浪→69歳で医師になる 還暦を迎えてから、2度目の大学生活を満喫した伊藤さん。しかし、医学部を卒業した後、伊藤さんを待ち受けていたのは予想外の壁でした。医学部卒業生の国家試験合格率は90%以上ですが、伊藤さんは3度の不合格を経験したのです。
「模擬試験の成績を見ると、毎年上位ではなくて合格ギリギリの危ないところにいました。最初は9割以上が通る試験で、自分も受かるものと軽く考えていたのですが、これはやっぱり大変だなと思いました。 医学部編入も4年かかりましたが、そちらはすぐに入るのは無理だと最初から思っていたので、その時より挫折感がありましたね」 しかし、70歳を前にした年の4度目の挑戦でようやく合格。その後は、金沢市内の城北病院で初期研修を2年間した後、大阪に戻り、現在は鶴見区のコープおおさか病院の総合診療科で専攻医として2年目を過ごしています。
こうして無事、69歳で医師になることができた伊藤さん。エンジニアとして35年間「同じ品質の製品を安定供給する」ことを使命としてきた伊藤さんですが、医師の仕事は対極にありました。 「前の仕事はものづくりで、同じ品物を同じ品質で供給することが基本でした。しかし、今の仕事は人間が相手で、同じ病名でも一人ひとり全部違います。年齢も小さな子どもから90歳、100歳の方もいらっしゃって、それぞれに対応して適切な治療をしなければいけないので責任の重い仕事であると思います。
でも、大変な仕事の中でもうまくいって患者さんに喜んでもらえた時は非常にうれしいですね。そういった醍醐味もある仕事です」 ■“再挑戦”を応援したい 現在、伊藤さんの周囲にも、同じように医師を目指す人がたくさんいます。 娘の保育園の同級生が「もう一度医学部に挑戦したい」と相談してきたり、今年も国家試験に届かなかった後輩と励まし合ったりと、「少しでも良い影響を与えたい」という気持ちで関わり続けています。