【大河ドラマ べらぼう】第41回「歌麿筆美人大首絵」回想 主役は母のつよ、万感の思いが交錯した2つの「おっ母さん」 「美人大首絵」蔦重のコスト感覚と歌麿の超絶技巧、職人芸の精華

主役は母つよ 子を思う心と「孝」がテーマ

大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」、第41回「歌麿筆美人大首絵」は、蔦重(蔦屋重三郎、横浜流星さん)の母、つよ(高岡早紀さん)がクローズアップされました。かつて不本意ながら手放さざるを得なかった息子に対する母親の深い思いと、母の愛を知った蔦重の心の震えが、過去のエピソードと折り重なり、視聴者の涙を誘いました。つよと歌麿の「親子」対話も感動的でした。一方、幕府パートでも、厳しい対立の焦点となったのは天皇家とはいえやはり親子の「孝」の扱い。共通するモチーフを巧みに張り巡らせたストーリー展開でした。(ドラマの場面写真はNHK提供)

頭痛が引かない…自身の老い先を感じた故の「告白」でもあったのでしょう

出世した息子の元に図々しくも…と見えた母

つよの登場はドラマも半ばを過ぎた第26回(7月6日放送)からで、主要キャラクターの中ではかなり後発。幼少期の蔦重を「色に狂った」末に捨てて江戸を出たのち、下野(今の群馬県)で髪結いを営んでいたといいます。しかし時は江戸時代後半、折からの農村の荒廃と不作続きで食べられなくなりました。一方、息子はといえば一介の「吉原の捨て子」から江戸の中心の日本橋に堂々たる店を出す大出世。それまで何の音沙汰もなかったのに、そのタイミングで図々しくも転がりこんできた、という流れでした。当時の時代状況を踏まえたつよの半生の設定でした。

「孝」は大切、と夫の母をかばったてい

両親は共に愛人を作った末に子どもを捨てたと思い込んでいた蔦重。いつの間にか耕書堂に入り込んでいた母の姿に「今さら、どの面下げて」と激怒、つまみ出そうとしました。しかし、漢籍の教養豊かな妻のてい(橋本愛さん)が、儒教で重要視される「孝」(親を大切にする心)の精神に則り、とりなしてくれたお陰で店で暮らすことができるようになりました。

その後は「この母あってこの子あり」と形容するほかない息子顔負けの人たらしの才能と、息子には不得手な人情の機微に敏感な心配り、さらに髪結いの技量も活かして、いつの間にか耕書堂に無くてはならないキャラクターになりました。人の心に無理なく分け入ってくる高岡早紀さんの演技がさすがでした。今回も披露した髪結いの所作は吹き替え無しでしょう。番組スタッフが「練習がいらない」と手放しで賞賛する高岡さんの手わざです。

親子、髪結いの対話 「べらぼう」史に残る名場面

その後も蔦重は、母を捕まえてはくどいほどの「ババア」呼ばわり。陰に日向に店を支えてくれる母に感謝はしつつも、過去の行状へのわだかまりは消えないようでした。

そして迎えたこの日。体調不良を訴える母のことを気にしつつも、店を立て直すための商談で、名古屋へ向かうことに決めた蔦重。旅立ち前、初めて母に髪結いをしてもらいながら、その母と交わした対話は「べらぼう」史に残る名場面になりました。

「夫婦喧嘩したあげく、てめえ(蔦重)はおれの子じゃねえ、私の子じゃねえって、2人して出ていった。あれはウソなのか」。蔦重も母の様子から薄々、何か裏があることには気づいていたようでした。つよが明かした真相は、当時の貧しい家庭ならいかにもありそうなものでした。

「俺が考えた話よりずっとよかった」真相

男親がばくちで多額の借金を作り、江戸から姿を消すことにした両親。逃亡先でどういう生活になるかもわからず、やむを得ず息子は吉原の大店である駿河屋(高橋克実さん)に預かってもらうことに。しかし、蔦重の元に借金取りが取り立てに来た際、「おれが親の借金の肩代わりして」などと考えかねないことが気がかりでした。「口が裂けてもあれが親だなんて言いたくないように、お父さんは色に狂って、私も色に狂ったってことにして、子を捨てたのさ」。

ばくちの借金が発端ですから、立派な親とはもちろん言えません。子に累が及ばないようにと考えたカバーストーリーですが、借金逃れの一環ですからそれを美談と言ってよいのかどうか……。しかし、子の将来を考え、自分たちが恨まれてもウソをつき通した親心にウソはありませんでした。蔦重が「おれが考えていた話よりずっといい」と言ったとおりでした。本人はどんな想像をしていたのでしょうか。

朝顔姐さんに救われ、親の不在でフィクションに目覚めた

「おれは公方様の隠し子で、(親の)2人は隠密でとか、おれは桃太郎だったんじゃねえか、とか。ガキの頃の話だぜ」。

第1回の「ありがた山の寒がらす」の名シーンが思い出されます。平賀源内先生の「書をもって世を耕す」とならんで、蔦重の今を形成している二つの大きな経験のうちのひとつです。

蔦重(当時の名前は唐丸)と幼馴染のあざみ(のちの花の井、瀬川)に、読書の楽しみを教えてくれた元花魁の朝顔姐さん(愛希れいかさん)です。いじめられて辛い日々を送っていた唐丸に、朝顔姐さんは「唐丸のお父っさんと、お母っさんは、鬼退治に出て行ったのかもしれせんな」と語りかけました。両親の不在という現実を、フィクションで乗り切れ、と勧めたのです。「(真相が)どうせ分からぬのなら、思いっきり楽しい理由を考えたらいかが。その方が楽しうありんせんか」と。「公方の隠し子」や、「両親は隠密」といったアイデアは、朝顔姐さんとのやりとりから出て来たもの。蔦重にとって、50歳手前になっても覚えている大切な記憶になりました。両親の不在と、朝顔姐さんとの出会いが、本作りに捧げた蔦重の人生をスタートさせた、ということなのでしょう。

「人は強くなれない。そこに気付けば男っぷりも上がる」

さらにつよの名セリフが続きました。「あんたは強い子だよ。あんたは立派だよ。でもね、たいていの人はそんなに強くなれなくて、強がるんだ。口では平気といっても、実のところは平気じゃなくてね。そこんとこ、もうちょっと気付けて、ありがたく思えるようになったら、もう一段、男っぷりも上がるってもんさ」。歌麿のことが念頭にあったに違いありません。「2人の息子」への親心を凝縮した言葉に聞こえました。蔦重も感極まるものがありました。

「ババア」の連呼があったから沁みた「おっ母さん」

何度か逡巡したのち、旅立ちを告げる蔦重の口から出たのが、「じゃあ行ってくる。おっ母さん」。つよが江戸に戻ってきたから、初めて告げた「おっ母さん」という言葉でした。これまで「旦那様」と家の主人である蔦重を立てた言い方をしてきたつよも、はじめて「頼んだよ、重三郎」と母として息子へ向けて語りました。万感の思いが積み重なった「おっかさん」「重三郎」のひと幕でした。

カッコいい横浜流星さんの口から、キリリとした高岡早紀さんに向けて敢えて何十回、何百回も繰り返された「ババア」という言葉は、この1回の「おっ母さん」のために用意された布石でした。大泣きのファンも多かったことかと思います。つよから、幼名の「唐丸」と呼びかけられた時の横浜流星さんの表情も、まるで子供のころに戻ったかのような「素」の佇まい。忘れられない絶妙のシーンの連続でした。

歌麿の孤独に寄り添ったつよ

今回はつよが主役。歌麿とのやりとりも心がこもったものでした。

瑣吉さきち(津田健次郎さん)から、よりによって蔦重の目の前で「おぬしは男色ではないのか。もしくは両刀」とぶしつけに尋ねられてしまった歌麿。適当にやり過ごしたものの、蔦重に対する歌麿の気持ちを知るつよにとって、放っておけない事件でした。珍しく店の運営のことで蔦重に意見し、強い調子で、「瑣吉を追い出せ」と迫るほどでした。

歌麿の元を訪れたつよ。「このままじゃあの子(蔦重)は一生、これっぽちもあんたの気持ちに気付かないよ。あんたはそれでいいのか」。歌麿本人とこのテーマについて率直に話すのは、つよにとっても初めてです。

「綺麗な抜け殻が残ればいい」

「気づかれたとこで、いいことなんて何もねえ。俺の今の望みは、綺麗な抜け殻だけが残ることさ。面白かったりして、誰かの心をいやす。2人でいい抜け殻を残せるのなら、おれは今、それだけでいいんだ」。生まれて以来の数々の困難を経て、歌麿がたどり着いた境地だったのでしょう。とにかく作品という証が残ればいい、という思いでした。

「よろしく頼むよ。おっ母さん」

「ごめんね、歌。あんな朴念仁に生んじまって」とつよ。「ありがてえよ。聞いてもらえるってな、心が軽くなるもんな」と歌。「遠慮してんじゃないよ。お母さんの前で。あんたはあの子の義理の弟。だったらあんたも私の息子さ」。

「じゃあ、よろしく頼むよ。おっ母さん」。つよの真情に触れて、歌麿も素直になれました。「おっ母さん」という言葉に泣かされた2題でした。体調不良を覚えたつよ、老い先短いことを悟ったがゆえの行動だったのかもしれません。

「美人大首絵」の雲母摺、先行事例が生きた

前回に続き、歌麿と蔦重コンビによる歴史的作品、大首絵の美人画の制作過程が描かれました。

素晴らしい完成度の歌麿の絵。しかしもうひとつインパクトがほしいと感じた蔦重、「雲母摺きらずり」を施すことを決めます。絵の背景を雲母(うんも)という鉱物で摺る技法です。平安時代から和紙や経典を写す紙に文様を摺りだすためなどに使われた古い技法です。蔦重と歌麿のコンビは、すでに作品で使った経験はありました。狂歌絵本の「潮干のつと」です。

あけら菅江 [編] , 喜多川歌麿 [画]『潮干のつと』,耕書堂蔦屋重三郎,[寛政初期]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1288344あけら菅江 [編] , 喜多川歌麿 [画]『潮干のつと』,耕書堂蔦屋重三郎,[寛政初期]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1288344「潮干のつと」とは「潮干狩りのみやげ」という意味。蔦重が刊行した狂歌絵本の代表的なもので、空摺りや雲母などが施され、当時の最高水準の技術を駆使して制作されました。寛政元年(1789)の作で美人大首絵の4年ほど前です。だから蔦重、その表現効果のほどには自信があったのでしょう。

私たちも現在、美術館などで見ることはできる作品です。しかし、当時の人たちが楽しんだように、外光やろうそくの灯りの元で、実物を手にしながら鑑賞する機会はまずありません。ドラマならではの素晴らしい映像体験となりました。雲母は光源の角度を変えることで画面の輝きを変化させ、また奥行きを感じさせる効果があるのです。

冷静なコスト計算+歌麿の熟練の技+職人芸

摺師も「どえらいもんができた」と自画自賛するほどの完成度。当時の職人たちの技術の粋が発揮されました。同時に、ただ手間暇とコストをかけて豪華なものを作った訳ではないところも、この作品の特徴です。蔦重が「雲母は金、銀ほど値は張らねえですし」と強調していたとおり、実は見た目ほど高価なものではありません。あらかじめ資金を集めて制作する「入銀」の活用など、コスト意識に長けた蔦重らしい成果物でもありました。

喜多川歌麿筆『婦人相學十躰・面白キ相』 江戸時代・18世紀 東京国立博物館蔵出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/)

歌麿の技も不可欠でした。特別展「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」の図録で、東京国立博物館の村瀬可奈氏は「歌麿の最初期の大首絵『婦人相学十躰 面白キ相』などを改めてみれば、驚くほど少ない色数で画面が構成されていることに気付く。背景描写が省略されることでわずかな色版での摺刷が可能となり、その分、費用はおさえられたとみられる」と指摘。「裏を返せば、このシンプルな画面の雲母摺大首絵は、絵師の高い画力を前提として成り立つ商品ということでもある」と結論づけています。誰かが欠けては成立しなかった、歴史を変えた名作でした。

「学を成したい女子は数多いる」 ていの主張

「源氏物語」の名文や和歌を流麗な書体で綴った書籍を出版したい、というアイデアを出したのは蔦重の妻、てい(橋本愛さん)です。彼女らしい知性と主張を感じる提案でした。

このアイデアを面白いと思った蔦重が、白羽の矢を立てたのが歌人、和学者の加藤千蔭(中山秀征さん)でした。

少年時代から国学の大家、賀茂真淵に学んだ本格派で、江戸の歌壇をリードした存在でした。絵画や書にも長じていました。以前から蔦重とは交流があったのでした。

北尾政演 画 ほか『志やれ染手拭合』,白鳳堂,天明4 [1784] 跋. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2537594京伝が自身の姿を戯画化した「京伝鼻」の男。そのユーモラスな姿をあしらった図案集、覚えていらっしゃるでしょうか。第29回「江戸生蔦屋仇討」に登場しました。案を出したものとして名前をあげられた「鴨鞭蔭〈かものむちかげ〉」は、加藤千蔭(国学の師、賀茂真淵の名と自分の名を重ねる)ではないかと考えられています。正統派の文化人ながら、戯作者とも付き合う幅の広い人物だったのでしょう。蔦重とていのオファーを快く引き受けてくれました。

白抜きの斬新な書物「ゆきかひぶり」が誕生しました。

『ゆきかひぶり』(奈良女子大学学術情報センター所蔵) 出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100258511ご覧のとおりの美しい書物。源氏物語の名場面が次々に紹介されます。「若紫」の有名な「あさか山 浅くも人を 思わぬに など山の井の かけ離るらむ」などが登場します

仕事を依頼するにあたって、女性向けの書であることを強調するていの熱弁が奮っていました。「美しい書は眺めるだけで楽しいですし、世には趣きあふれる書を書きたい女子は大勢おります。さらに言えば、本当は学問を成したい女子は数多おるのではないか、と考えました」。ていのキャラクターを一層、浮き彫りにするステキなエピソードでした。

(美術展ナビ編集班 岡部匡志) <あわせて読みたい>

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